・・・「困ったねえ、私は何も名のつくような病気じゃないと思っていたんだよ。」 洋一は長火鉢の向うに、いやいや落着かない膝を据えた。襖一つ隔てた向うには、大病の母が横になっている。――そう云う意識がいつもよりも、一層この昔風な老人の相手を苛・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・すぐ飛び出そうとしたけれども、はだしだと足をけがしておそろしい病気になるとおかあさんから聞いていたから、暗やみの中で手さぐりにさぐったら大きなぞうりがあったから、だれのだか知らないけれどもそれをはいて戸外に飛び出した。戸外も真暗で寒かった。・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・「あなた御病気におなりなさりはしますまいね。」 フレンチは怒が心頭より発した。非常なる侮辱をでも妻に加えられたように。「なんだってそんな事を言うのだ。そんな事を己に言って、それがなんになるものか。」肩を聳やかし、眉を高く額へ吊る・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 菊枝は活々とした女になったが、以前から身に添えていた、菊五郎格子の帯揚に入れた写真が一枚、それに朋輩の女から、橘之助の病気見舞を紅筆で書いて寄越したふみとは、その名の菊の枝に結んで、今年は二十。明治三十三年十一月・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 若い衆は代り代り病気をする。水中の物もいつまで捨てては置けず、自分の為すべき事は無際限である。自分は日々朝草鞋をはいて立ち、夜まで脱ぐ遑がない。避難五日目にようやく牛の為に雨掩いができた。 眼前の迫害が無くなって、前途を考うること・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ないんでやたらに出る事も出来ないので化病を起して癲癇を出して目をむき出し口から沫をふき手足をふるわせたんでこれを見てはあんまりいい気持もしないんで家にかえすとよろこんで親には先の男にはそりゃあ、いやな病気があるんですよといいかげんなさたに、・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・「もう、好く好かないの問題じゃアない、病気がうつる問題だよ」「そんな物アとっくに直ってる、わ」「分るもんか? 貴様の口のはたも、どこの馬の骨か分りもしない奴の毒を受けた結果だぞ」 言っておかなかったが、かの女の口のはたの爛れ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・然るにこの病気はいずれも食戒が厳しく、間食は絶対に禁じられたが、今ならカルケットやウェーファーに比すべき軽焼だけが無害として許された。殊に軽焼という名が病を軽く済ますという縁喜から喜ばれて、何時からとなく疱瘡痲疹の病人の間食や見舞物は軽焼に・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そこここに、低い、片羽のような、病気らしい灌木が伸びようとして伸びずにいる。 二人の女は黙って並んで歩いている。まるきり言語の通ぜぬ外国人同士のようである。いつも女房の方が一足先に立って行く。多分そのせいで、女学生の方が何か言ったり、問・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・この若者も病気にかかりました。 病気にかかって、いままでのように、よく働けなくなると、工場では、この若者に、金を払って雇っておくことを心よく思いませんでした。そしてとうとうある日のこと、若者に暇をやって工場から出してしまったのです。・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
出典:青空文庫