・・・しきりに気はあせるが、天秤棒は肩にめりこみそうに痛いし、気持も重くなって足もはかどらない。しまいには涙がでてきて、桶ごとこんにゃくも何もおっぽりだしたくなることもあった。 ねえ読者諸君! はたで眺めるぶんには、仕事も気楽に見えるが、実際・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・そうして彼らの間に規律と云うものが無かったならば、――彼らのうちには今日は頭が痛いから休むというものもできようし、朝の七時からは厭だからおれは午後から出るとわがままを云うものもできようし、あるいは今日は少し早く切り上げて寄席へ行くとか、ある・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・ 然し、彼が、痛いのは腰だ、と思っていたのに、川上の捲上線に伝って登り始めるのと、カッキリ同時に、その腰の痛みが上の方に上って来るのを覚えた。 彼は、駈けていた積りであったのに、後から登って行く小林に追いつかれた。 然し、一体、・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・おお痛い」と、西宮は仰山らしく腕を擦る。 小万はにっこり笑ッて、「あんまりひどい目に会わせておくれでないよ、虫が発ると困るからね」「はははは。でかばちもない虫だ」と、西宮。「ほほほほ。可愛い虫さ」「油虫じゃアないか」「苦・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・手や足や頭などに火が附いてボロボロと焼けて来るというと、痛い事も痛いであろうが脇から見て居ってもあんまりいい心持はしない。おまけに其臭気と来たらたまった者じゃない。併し其苦痛も臭気も一時の事として白骨になってしまうと最早サッパリしたものであ・・・ 正岡子規 「死後」
・・・「キーイ、キーイ、クヮア、あ、痛い、誰だい。ひとの頭を撲るやつは。」「勘定を払いな。」「あっ、そうそう。勘定はいくらになっていますか。」「お前のは三百四十二杯で、八十五銭五厘だ。どうだ。払えるか。」 あまがえるは財布を出・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・ 足が痛い痛いと云いながら私が家中□(走して居るのを皆が笑って誰も取り合わない。 すっかり飾って仕舞うと三時近い。 顔が熱くなって唇がブルブルして居る。 S子の顔を見るまでは落つけないのだから―― 今ベルがなるか今ベルが・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・矢は蝟毛の如く的に立っても、予は痛いとも思わなかった。人が鴎外という影を捉えて騒いだ時も、その騒ぎの止んだ後も、形は故の如くで、我は故の我である。啻に故の我なるのみでは無い、予はその後も学んでいて、その進歩は破鼈の行くが如きながらも、一日を・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・「エヘエヘエヘエヘ。」 物音を聞きつけて灸の母は馳けて来た。「どうしたの、どうしたの。」 母は灸を抱き上げて揺ってみた。灸の顔は揺られながら青くなってべたりと母親の胸へついた。「痛いか、どこが痛いの。」 灸は眼を閉じ・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・諧謔で相手の言い草をひっくり返すというような機鋒はなかなか鋭かったが、しかし相手の痛いところへ突き込んで行くというような、辛辣なところは少しもなかった。むしろ相手の心持ちをいたわり、痛いところを避けるような心づかいを、行き届いてする人であっ・・・ 和辻哲郎 「漱石の人物」
出典:青空文庫