・・・のらくらものの隙稼ぎに鑑札だけは受けているのが、いよいよ獲ものに困ずると、極めて内証に、森の白鷺を盗み撃する。人目を憚るのだから、忍びに忍んで潜入するのだが、いや、どうも、我折れた根気のいい事は、朝早くでも、晩方でも、日が暮れたりといえども・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ 軽くおさえて、しばらくして、「謂うことが分るか、姉さん、分るかい、お前さんはね、紛失したというその五百円を盗みも、見もしないが、欲しいと思ったんだろうね。可し、欲しいと思った。それは深切なこの婆さんが、金子を頂かされたのを見て、あ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・大きな人間ばかりは騙り取っても盗み取っても罪にならないからなあ」「や、親父もちょっと片意地の弦がはずれちまえばあとはやっぱりいさくさなしさ。なんでもこんごろはおかしいほどおとよと話がもてるちこったハヽヽヽヽ」 佐介がハヽヽヽヽと笑う・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・そうして、やっと豊橋の近くまで来た時は、もう一歩も動けず、目の前は真っ白、たまりかねて線路工夫の弁当を盗みました。みつかって、警察へ突き出される覚悟でした。おかしい話ですが、留置所へはいって食う飯のことが目にちらついてならなかった。人間もこ・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・私はコソコソと往きとは反対の盗み足で石段を帰ってきたが、両側の杉や松の枝が後ろから招いてる気がして、頸筋に死の冷めたい手触りを感じた。……「で、ゆうべあんなことで、ついフラフラとあの松の枝にぶらさがったはいいとして、今朝になってほん・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ われ、人の愛を盗みし報酬なり。 二郎はしばし黙して月を仰ぎつ、前なる杯を挙げ光にかざせば珠のごとき色かれが額に落ちぬ。しからば愛を盗まれし者の報酬は何ぞと言いつつ飲み干せり。われ、哀しき心にその美酒の浸み渡る心地ならめ。二郎は歓然・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・然し現在の母が子の抽斗から盗み出したので、仮令公金であれ、子の情として訴たえる理由にはどうしてもゆかない。訴たえることは出来ず、母からは取返えすことも出来ないなら、窃かに自分で弁償するより外の手段はない。八千円ばかりの金高から百円を帳面で胡・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・と真蔵は放擲って置いてもお源が今後容易に盗み得ぬことを知っているけれど、その理由を打明けないと決心てるから、仕様事なしにこう言った。「充満で御座います」とお徳は一言で拒絶した。「そうか」真蔵は黙って了う。「それじゃこうしたらどう・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・看守の眼を盗みながら、どの位の用意と時間をかけて、それを作ったのだろう。その一つ一つの動作をしている同志の気持が、そのまゝ俺に来るのだ。 同志は何処にでもいるんだ、何よりそう思った。一度、本を読むのに飽きたので、独房の壁の中を撫でまわし・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ 私は、「財は盗みである」というあの古い言葉を思い出しながら、庭にむいた自分の部屋の障子に近く行った。四月も半ばを過ぎたころで、狭い庭へも春が来ていた。 私は自分で自分に尋ねてみた。「これは盗みだろうか。」 それには私は、否・・・ 島崎藤村 「分配」
出典:青空文庫