・・・ 母の父は南部すなわち盛岡藩の江戸留守居役で、母は九州の血を持った人であった。その間に生まれた母であるから、国籍は北にあっても、南方の血が多かった。維新の際南部藩が朝敵にまわったため、母は十二、三から流離の苦を嘗めて、結婚前には東京でお・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・随って椿岳の後継は二軒に支れ、正腹は淡島姓を継ぎ、庶出は小林姓を名乗ったが、二軒は今では関係が絶えて小林の跡は盛岡に住んでるそうだ。 が、小林にしろ淡島にしろ椿岳の画名が世間に歌われたのは維新後であって、維新前までは馬喰町四丁目の軽焼屋・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・私はこう言って弟だけ帰したが、それでは一昨晩の騒ぎの場合は父は私の妻の実家で酒を飲んでいたんだし、昨晩のあの九時ごろはたぶん盛岡附近を老の独り身を汽車に揺られていたわけであるが――がそれにしてもこのあわただしい出て来方は、何ものかに招かれて・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・三個できければ、歩みにくきことこの上なけれど、休みもせず、ついに渋民の九丁ほど手前にて水飲み飯したため、涙ぐみて渋民に入りぬ。盛岡まで二十銭という車夫あり、北海道の馬より三倍安し。ついにのりて盛岡につきぬ。久しぶりにて女子らしき女子をみる。・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・とか、「秋田」とか、「盛岡」とか――自分達の国の言葉をきゝたいのだ、自分ではしかし行けないところの。そしてまたそれだけの金を持つており、自由に切符が買えて、そこへ帰つて行く人達の顔を見たいからなのだ。――私は、その人達が改札を出たり、入つた・・・ 小林多喜二 「北海道の「俊寛」」
・・・父は、東京の、この牛込の生れで、祖父は陸中盛岡の人であります。祖父は、若いときに一人でふらりと東京に出て来て半分政治家、半分商人のような何だか危かしいことをやって、まあ、紳商とでもいうのでしょうか、それでも、どうやら成功して、中年で牛込のこ・・・ 太宰治 「誰も知らぬ」
・・・一九二五、五、一八、汽車は闇のなかをどんどん北へ走って行く。盛岡の上のそらがまだぼうっと明るく濁って見える。黒い藪だの松林だのぐんぐん窓を通って行く。北上山地の上のへりが時々かすかに見える。さあいよいよぼくらも岩手県・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・(どっちからお出(郡から土性調査をたのまれて盛岡(田畑の地味のお調 老人は眉を寄せてしばらく群青いろに染まった夕ぞらを見た。それからじつに不思議な表情をして笑った。(青金で誰か申し上げたのはうちのことですが、何分汚な・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
盛岡の産物のなかに、紫紺染というものがあります。 これは、紫紺という桔梗によく似た草の根を、灰で煮出して染めるのです。 南部の紫紺染は、昔は大へん名高いものだったそうですが、明治になってからは、西洋からやすいアニリ・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
時 一九二〇年代処 盛岡市郊外人物 爾薩待 正 開業したての植物医師ペンキ屋徒弟農民 一農民 二農民 三農民 四農民 五農民 六幕あく。粗末なバラ・・・ 宮沢賢治 「植物医師」
出典:青空文庫