・・・人間はそれぞれの明白な心の目標があって、それに向かわんために充分納得して寒苦と戦っているが、犬はなんのためだか、ちっともわからないで、ただたよる主人の向かう所なら、さもうれしげに死の雪原に突進するのである、犬でもやはり苦しくなくはないであろ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・美術工芸よりして日常一般の風俗流行に至るまで、新しき時代が促しつくらしめる凡てのものが過去に比較して劣るとも優っておらぬかぎり、われわれは丁度かの沈滞せる英国の画界を覚醒したロセッチ一派の如く、理想の目標を遠い過去に求める必要がありはせまい・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・ 自分は黙って森を目標にあるいて行った。田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。しばらくすると二股になった。自分は股の根に立って、ちょっと休んだ。「石が立ってるはずだがな」と小僧が云った。 なるほど八寸角の石が・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、ある場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槙雑木でも束になっていれば心丈夫ですから。 それからもう一つ誤解を防ぐ・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・詰らない事を云って、自分が疳癪玉の目標になっては、浮ばれないと思いついたのだ。「セキメイツ。長いものが、長いものの癖をして、巻かねえんだよ。巻かれた奴あ、ギュッと巻き締められて、息の根を止められちまわあな。ボーイ長を見な。奴あ泣寝入りと・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・あすこが次の目標なんだよ。暗くならないうちに早く行こう。」ファゼーロはどんどん走り出しました。 ほんとうにそこらではもうつめくさのあかりがつきはじめていました。わたくしはまたファゼーロのあとについて走りました。「早く行こう、早く行こ・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・その人々が一生をつくして仕上げたいと思う生存の目標に向って進む自己を悦びにより、苦しみにより一層豊饒にし、賢くしてくれる恋愛、それから発足した範囲の広い愛の種々相に対して、私共は礼讚せずにはいられませんが、無限な愛の一分野と思われる恋愛ばか・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・居留民はそこにおける地位、財産を守ろうとする一致した目標をもってがんばっている。士卒は兵士としての絶対の避くべからざる任務に服している。その間へ、銃をとって絶対に戦わなければならないでもない作家、一面には社と社との激烈な競争によって刺戟され・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・教え込まれた茸の価値はいわば彼に探求の目標を与えたのであった。すなわち彼を茸狩りに発足せしめたのであった。それから先の茸との交渉は厳密に彼自身の体験である。茸狩りを始めた子供にとっては、彼の目ざす茸がどれほどの使用価値や交換価値を持つかは、・・・ 和辻哲郎 「茸狩り」
・・・そこで人間は現世の欲望の満足を唯一の目標として生活する。彼を束縛するものはただこの満足のための功利的節度のほかに何ものもない。 しかし人はこの物質的な世界に何の不足もなく安住することができるか。愛の歓喜にある時彼はその幸福の永遠性を望ま・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫