・・・人の家の床の間に画幅の掛けられているのを見て、直にその家の主人を以て美術の鑑賞家となす事の当らざるに似ているであろう。世にはまた色紙短冊のたぐいに揮毫を求める好事家があるが、その人たちが悉く書画を愛するものとは言われない。 祖国の自然が・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・しかし人間精神上の生活において、吾人がもし一イズムに支配されんとするとき、吾人は直に与えられたる輪廓のために生存するの苦痛を感ずるものである。単に与えられたる輪廓の方便として生存するのは、形骸のために器械の用をなすと一般だからである。その時・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・直証の事実といえば、人は直にそれを内的と考える。而してそれから出立することが、内から出立することと考える。而して我々が疑うことのできない真理から出立するということは、この外にないという。しかし私は此でも主語的論理の独断が前提となっていると思・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・古への礼に男女は席を同くせず、衣裳をも同処に置ず、同じ所にて浴せず、物を受取渡す事も手より手へ直にせず、夜行時は必ず燭をともして行べし、他人はいふに及ばず夫婦兄弟にても別を正くすべしと也。今時の民家は此様の法をしらずして行規を乱にして名を穢・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・娘の去るや否や、一人の男直に代りて入来る。年齢はおよそ主人と同じ位なり。旅路にて汚れたりと覚しき衣服を纏いいる。左の胸に突込んだるナイフの木の柄現われおる。この男舞台の真中男。はあ。君はまだこの世に生きているな。永遠の洒落者め。君はまだ・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・人知れず力を入れて手を握った。直に艀舟に乗った。女は身動きもせず立って居た。こんな聯想が起ったので、「桟橋に別れを惜む夫婦かな」とやったが、月がなかった。今度は故郷の三津を想像して、波打ち際で、別を惜むことにしようと思うたがそれもいえず。遂・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・ 婆さんが出てから振返って見ると、朱塗りの丸盆の上に椀と飯茶碗と香物がのせられ、箱火鉢の傍の畳に直に置いてあった。陽子は立って行って盆を木箱の上にのせた。上り端の四畳の彼方に三畳の小間がある。そこが夫婦の寝起きの場所で夕飯が始まったらし・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ ―――――――――――――――― 秀麿は卒業後直に洋行した。秀麿と大した点数の懸隔もなくて、優等生として銀時計を頂戴した同科の新学士は、文部省から派遣せられる筈だのに、現にヨオロッパにいる一人が帰らなくては、経費が・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ これからあと直に、徳蔵おじはお暇を願って、元と出た自分の国へ引込みました。徳蔵おじはモウ年が寄って、故郷を離れる事が出来ないので、七年という実に面白い気楽な生涯をそこで送り、極おだやかに往生を遂る時に、僕をよんで、これからは兼て望の通・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・こうして、ありのままのおのれを卒直に露呈するという道は、早くから藤村の前にふさがれたのである。内からもり上がってくる青春の情熱は、それにもかかわらず、ありのままのおのれを露呈するように迫ってくるが、しかしそういう激発があっても、普通の場合な・・・ 和辻哲郎 「藤村の個性」
出典:青空文庫