・・・ 流は千葉街道からしきりと東南の方へ迂回して、両岸とも貧しげな人家の散在した陋巷を過ぎ、省線電車の線路をよこぎると、ここに再び田と畠との間を流れる美しい野川になる。しかしその眺望のひろびろしたことは、わたくしが朝夕その仮寓から見る諏訪田・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 毎朝、毎夕、あの恐しい省線にワーッと押しこまれ、ワーッと押し出されて、お勤めに通う若い女性たちは、昔の躾を守っていたら、電車一つにものれません。生活の現実が、昔の形式的な躾の型を、押し流してしまいました。 けれども、私たちの心には・・・ 宮本百合子 「新しい躾」
・・・ わかれて、省線にのり、やはり「きんとん」の包みをかばいながら、高田馬場からなじみふかい小瀧橋への通りを歩きながら、なんともいえず奇妙な落つけない気分がした。生きている。歩いている。考えたり、感じたりしている。まざまざと、日々の現実が心・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・その時刻にもかかわらず、省線は猛烈にこんで全く身動きも出来ず、上の子をやっと腰かけさせてかばっていた間に、背中の赤ちゃんは、おそらくねんねこの中へ顔を埋められ圧しつけられたためだろう、窒息して死んだ。 この不幸な出来ごとを、東京検事局で・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・今日の新聞を一頁よめば、到るところに、永年の嘘の皮が剥げて現れた醜い事実がさらけ出されています。省線に一度乗れば、弱い者を助けよ、という人間の理想が、跡かたもなくふきとばされているのが身に沁みます。私たちも、そのときは、肩で人を押すようにし・・・ 宮本百合子 「美しく豊な生活へ」
・・・配給の米、醤油、そういう基本になる生活物資が約三倍になった。省線の二十銭区間は六十銭となり、四十銭で勤められた同じ距離が、一円二十銭かかるようになった。電車・バスも、うっかり乗れないものになって来た。電燈料、ガス代、水道料、これらもひどく高・・・ 宮本百合子 「現実の必要」
・・・これだと、つまり、男の三分の一で生きて行け、ということになりますが、しかし女だけの物価というものはありません。省線の切符が三倍になりましたが、私は女ですからこれだけしか払いませんよ、といっても通用しないのであります。 また、学生生活をな・・・ 宮本百合子 「幸福について」
・・・勤めにゆくため、学校へゆくため、是非乗らなければならない省線、都電、バスなど、交通費もみんな三倍になりました。今の配給だけで、やって行ける家庭が一軒でもあるでしょうか。 今日、この有様の中でも、銀行家や金持ちは、コモかぶりを置いて暮して・・・ 宮本百合子 「幸福のために」
・・・あの混む省線で、押しあい、へしあいするなかに、かんざし沢山の日本髪、吉彌結びにしごきまで下げた娘さんがまじって、もまれている姿は、場ちがいで気の毒な感じでした。 美しくありたいという、青春のねがいが、こんな場ちがいな形でまで溢れ出さなけ・・・ 宮本百合子 「今年こそは」
・・・ 夜九時すぎから十時の間に、市電や省線にのりこんで来る詰襟の少年たちの心の底に求められているものは、何と云っても自分たちが偶然生れあわせた境遇に抗して、人生の可能を自分たちの現実によりひろげよりゆたかに獲得して行きたい熱望であろうと思う・・・ 宮本百合子 「今日の耳目」
出典:青空文庫