・・・さては大方美しき人なるべし。何者と重ねて問えば、私は存じませぬとばかり、はや岡焼きの色を見せて、溜室の方へと走り行きぬ。定めて朋輩の誰彼に、それと噂の種なるべし。客は微笑みて後を見送りしが、水に臨める縁先に立ち出でて、傍の椅子に身を寄せ掛け・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・自分はなお奥の方へと彼らの間を縫って往くと、船首水雷室の前に一小区画がある、そこに七、八名の水兵が、他の仲間と離れて一団体をなし、飲んでいた。 わが水兵はいかに酔っていても長官に対する敬礼は忘れない。彼らは自分を見るや一同起立して敬礼を・・・ 国木田独歩 「遺言」
一人の男と一人の女とが夫婦になるということは、人間という、文化があり、精神があり、その上に霊を持った生きものの一つの習わしであるから、それは二つの方面から見ねばならぬのではあるまいか。 すなわち一つは宇宙の生命の法則の・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・しかし、うわ手な、罪人を扱うようなものゝ云い方は、変に彼を圧迫した。彼は、ポケットの街の女から貰った眼の大きい写真をかくすことも忘れて、呼ばれるままに事務室へ這入って行った。 陸軍病院で――彼は、そこに勤務していた――毎月一円ずつ強制的・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 強て何か話が無いかとお尋ねならば、仕方がありません、わたくしが少時の間――左様です、十六七の頃に通学した事のある漢学や数学の私塾の有様や、其の頃の雑事や、同じ学舎に通った朋友等の状態に就いてのお話でも仕て見ましょう。今でも其の時分の面・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ 娘は次の日から又居なくなり、そして今度という今度は刑務所の方へ廻ってしまったのでした。私は今でもあの娘の身体のきずを忘れることが出来ません。 中山のお母さんはそういって、唇をかんだ。――一九三一・一一・一四――・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・瓶のごとく輝るを気にしながら栄えぬものは浮世の義理と辛防したるがわが前に余念なき小春が歳十六ばかり色ぽッてりと白き丸顔の愛敬溢るるを何の気もなく瞻めいたるにまたもや大吉に認けられお前にはあなたのような方がいいのだよと彼を抑えこれを揚ぐる画策・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
引続きまして、梅若七兵衞と申す古いお話を一席申上げます。えゝ此の梅若七兵衞という人は、能役者の内狂言師でございまして、芝新銭座に居りました。能の方は稽古のむずかしいもので、尤も狂言の方でも釣狐などと申すと、三日も前から腰を・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・多くの山家育ちの人達と同じように、わたしも草木なしにはいられない方だから、これまでいろいろなものを植えるには植えて見たが、日当りはわるく、風通しもよくなく、おまけに谷の底のようなこの町中では、どの草も思うように生長しない。そういう中で、わた・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・あるいは百年千年の後には、その方が一層幸福な生存状態を形づくるかも知れないが、少なくともすぐ次の将来における自己の生というものが威嚇される。単身の場合はまだよいが、同じ自己でも、妻と拡がり子と拡がった場合には、いよいよそれが心苦しくなる。つ・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
出典:青空文庫