・・・彼はこの脚を眺めるたびに何とも言われぬ情なさを感じた。万一この脚の見つかった日には会社も必ず半三郎を馘首してしまうのに違いない。同僚も今後の交際は御免を蒙るのにきまっている。常子も――おお、「弱きものよ汝の名は女なり」! 常子も恐らくはこの・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・ 賢造はじっと暗い中に、慎太郎の顔を眺めるらしかった。「お前のお母さんなんぞは後生も好い方だし、――どうしてああ苦しむかね。」 二人はしばらく黙っていた。「みんなまだ起きていますか?」 慎太郎は父と向き合ったまま、黙って・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・僕はしばらく立って何所を眺めるともなく、民子の俤を脳中にえがきつつ思いに沈んでいる。「政夫さん、何をそんなに考えているの」 お増が出し抜けに後からそいって、近くへ寄ってきた。僕がよい加減なことを一言二言いうと、お増はいきなり僕の手を・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・抑え難き憂愁を包む身の、洗う蚕籠には念も入らず、幾度も立っては田圃の遠くを眺めるのである。ここから南の方へ十町ばかり、広い田圃の中に小島のような森がある、そこが省作の村である。木立の隙間から倉の白壁がちらちら見える、それが省作の家である。・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・遠く眺めると彼方の山々も、野も、河原も、一様に赤い午後の日に色どられている。其処にも、秋の冷かな気が雲の色に、日の光りに潜んでいた。 前の山には、ぶな、白樺、松の木などがある。小高い山の中程に薬師堂があって鐘の音が聞える。境内には柳や、・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・これより深き注意と感化とを与えようと努力している点から之を眺めると、それは決して単なる職業とのみ観る訳には行かない。そこに深い社会奉仕の尊さが潜んでいると思う。 大学の教授たちが自分の専門に没頭して、只だそれを伝えると云うような事以外に・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
・・・そして着いた夜あるホテルへ泊まるんですが、夜中にふと眼をさましてそれからすぐ寝つけないで、深夜の闇のなかに旅情を感じながら窓の外を眺めるんです。空は美しい星空で、その下にウィーンの市が眠っている。その男はしばらくその夜景に眺め耽っていたが、・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・そして夜、人びとが寝静まった頃この窓へ来てそとを眺めるのだった。 深い霧のなかを影法師のように過ぎてゆく想念がだんだん分明になって来る。 彼の視野のなかで消散したり凝聚したりしていた風景は、ある瞬間それが実に親しい風景だったかのよう・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・といいながら新工学士神崎は石を拾って不思議そうに眺める。朝田はこの時既に座敷から廻って縁先に来た。「オイ朝田、春子さんがこの石を妙だろうと言うが君は何と思う。」「頗る妙と思うねエ」「ね朝田様、妙でしょう。」と少女はにこにこ。・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・水上を遠く眺めると、一直線に流れてくる水道の末は銀粉を撒いたような一種の陰影のうちに消え、間近くなるにつれてぎらぎら輝いて矢のごとく走ってくる。自分たちはある橋の上に立って、流れの上と流れのすそと見比べていた。光線の具合で流れの趣が絶えず変・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
出典:青空文庫