・・・線路の上に立つと、見渡すかぎり、自分より高いものはないような気がして、四方の眺望は悉く眼下に横わっているが、しかし海や川が見えるでもなく、砂漠のような埋立地や空地のところどころに汚い長屋建の人家がごたごたに寄集ってはまた途絶えている光景は、・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・道徳に関係の無い文芸の御話をすれば幾らでもありますが、例えば今私がここへ立ってむずかしい顔をして諸君を眼下に見て何か話をしている最中に何かの拍子で、卑陋な御話ではあるが、大きな放屁をするとする。そうすると諸君は笑うだろうか、怒るだろうか。そ・・・ 夏目漱石 「文芸と道徳」
・・・他の醜物を眼下に視ることなからんと欲するも得べからず。即ち我が精神を自信自重の高処に進めたるものにして、精神一度び定まるときは、その働きはただ人倫の区域のみに止まらず、発しては社会交際の運動となり、言語応対の風采となり、浩然の気外に溢れて、・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・宿の高い欄干から外を眺めると、雨にけむる湾内の景色が見渡せる。眼下は、どこか人家の背戸だ。荒壁のうしろに、小さい一枚畑があって蔬菜が作ってある。手拭をかぶった女子が、雨にかまわず畝のところにかがんで何かしている。それがいつまでも遙か下の方に・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ 私は、祖母の意地の悪い、菊太を眼下に見る様な様子を見ると菊太の子供等がこれを見た時の気持を想像した。 自分の父親は、女年寄の前に頭を下げてたのんで居ると相手は、つけつけと取り合わない様にして居るのを見たら、訳もなく、女は己より目下・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・ こうして、彼の妻はその死期の前を、花園の人々に愛されただけ、眼下の漁場に苦しめられた。しかし、花園は既にその山上の優れた位地を占めた勝利のために、何事にも黙っていなければならなかった。彼の妻は日々一層激しく咳き続けた。 ・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫