・・・しかしこの際それらの動機がそれぞれの強さで存在せぬということをわれわれはその瞬間に企てることはできない。故に事実は一つの動機は選ばれないわけにはいかなかったのだ。それを選ばぬことは可能でなかったのだ。リップスによれば、これは疑いもなく決定論・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 云いながら、瞬間、何故曹長が、自分が露西亜語をかじっているのを知っているか、と、それが頭にひらめいた。「話は出来ますか。」曹長は気軽くきいた。「どっから僕が、露西亜語をかじってるんをしらべ出したんですか?」「停車場で君がバ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・――瞬間、今迄喧しかった監房という監房が抑えられたようにシーンとなった。俺は途中まで箸を持ちあげたまゝ、息をのんでいた。 と、――その時、誰か一人が突然壁をたゝいた。それがキッかけに、今度は爆発するように、皆が足踏みをし、壁をたゝき出し・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・無論実行の瞬間はそんなことを思うと限るものでないから、ただ伝襲の善悪観念でやっていることが多い。けれどもそれは盲目の道徳、醒めない道徳たるに過ぎぬ。開眼して見れば、顔を出して来るものは神でも仏でもなくして自己である。だから自己がすなわち神で・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・あのめしを噛む、その瞬間の感じのことだ。動物的な、満足である。下品な話だ。……」 私は、未だ中学生であったけれども、長兄のそんな述懐を、せっせと筆記しながら、兄を、たまらなく可哀想に思いました。A県の近衛公だなぞと無智なおだてかたはして・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・あるいはこの花の咲く瞬間に放散する匂いではあるまいか。そんなことを話しながら宿のヴェランダで子供らと、こんな処でなければめったにする機会のないような話をするのである。 時候は夏でも海抜九百メートル以上にはもう秋が支配している。秋は山から・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・私はその瞬間、一ぺんに身体があつくなってきて、グーン、グーン、と空へのぼってゆく気がした。 二 林は五年生のとき、私たちの学校へ入ってきた子だった。ハワイで生れてハワイの小学校にあがっていたが、日本に帰って勉強するた・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・わたくしは上陸したその瞬間から唯物珍らしいというよりも、何やら最少し深刻な感激に打たれていたのであった。その頃にはエキゾチズムという語はまだ知ろうはずもなかったので、わたくしは官覚の興奮していることだけは心づいていながら、これを自覚しこれを・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・それは犬殺しで帯へ挿した棍棒を今抜こうとする瞬間であった。人なつこい犬は投げられた煎餅に尾を振りながら犬殺しの足もとに近づいて居たのである。犬殺しは太十の姿を見て一足すさった。「何すんだ」 太十は思わず呶鳴った。「殺すのよ」・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ちょうど汽車がゴーッと馳けて来る、その運動の一瞬間すなわち運動の性質の最も現われ悪い刹那の光景を写真にとって、これが汽車だこれが汽車だと云ってあたかも汽車のすべてを一枚の裏に写し得たごとく吹聴すると一般である。なるほどどこから見ても汽車に違・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
出典:青空文庫