・・・かくまで私心が長じてきてどうして立派な口がきけよう。僕はただ一言、「はア……」 と答えたきりなんにも言わず、母の言いつけに盲従する外はなかった。「僕は学校へ往ってしまえばそれでよいけど、民さんは跡でどうなるだろうか」 不図そ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・これほど明白に判り切った事をおとよが勝手我儘な私心一つで飽くまでも親の意に逆らうと思いつめてるからどうしても勘弁ができない。ただ何といってもわが子であるから仕方がなく結末がつかないばかりである。 おとよは心はどこまでも強固であれど、父に・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・ 文学の健全な大衆化は、この方向に志されなければならないということは、文学の発展ということを私心なしに考える者なら判断し得るところであると思う。 人間らしい生活に対する翹望というものは職場、職分の相違、したがって細かい気持の部分部分・・・ 宮本百合子 「今日の文学に求められているヒューマニズム」
・・・ 私心ないと云う事、我見のないと云う事は、自分の持って居る或る箇性、人間性を、絶大なフ遍性と同一させた境地でございましょう。「我」と云う小さい境を蹴破って一層膨張した我ではございますまいか。その境で、人はもう、小さい「俺」や「私」やには・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・日本の理性と良心の擁護をめざす私心のない、広汎な戦線の必要は、こんにちにおいてもまじめなすべての人々の欲求として理解されている。それにもかかわらず、たとえば、文学者懇談会は、継続されなかった。なぜあれは、もちつづけてゆけなかったのだろうか。・・・ 宮本百合子 「「下じき」の問題」
・・・其故、この古家の古本に再び日の目を見せる気になった私の心持の底には、謂わば私心を脱した書籍愛好者魂とでも云うべきものが働いていなかったとは云えない。 慶応三年新彫、江戸開成所教授神田孝平訳の経済小学、明治元年版の山陽詩註、明治二十二年出・・・ 宮本百合子 「蠹魚」
・・・ドン・キホーテの単純な私心ない行為に「負かされ詰めだけれども、結果としてとうとう僕の方が勝ったのだ。ところが、こいつは誰にも通じやしない。もっとも僕は通じなくたって悲しんでやしないがね」という独善的な結論をかためるためにくっついて行ったので・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
・・・ 苟且にも、小説に書く場合には、私自身のことを書いて居ても、決して、私心を以て描くのではない。心持それ自身を、或圏境に於ける、或性格の二十何歳の女は、斯う思った、と、自ら観、書くのだ。本能が観察せずには居ないのですから、と云っても、其は・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
・・・そして小説を書くほどの人は、人類が尊い努力と犠牲によって歴史をおしすすめてきた真理に対して私心なくその価値を認めて、人々とともにその人間の知慧の成果を分けもつことを心からよろこべる人であるはず、とも云っている。文学と生活との関係については、・・・ 宮本百合子 「文学と生活」
・・・うぬぼれや虚栄心や猜みなどのような私心を去らなくては、この「明」は得られないのであるが、ひとたび大将がこの明を得れば、彼の率いる武士団は、強剛不壊のものになってくる。ということは、道義的性格の尊重が彼の武士団を支配するということなのである。・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫