・・・ これを聞くとかの急ぎ歩で遣って来た男の児はたちまち歩みを遅くしてしまって、声のした方を見ながら、ぶらりぶらりと歩くと、女の児の方では何かに打興じて笑い声を洩らしたが、見る人ありとも心付かぬのであろう、桑の葉越に紅いや青い色をちらつかせ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・と往時権現様得意の逃支度冗談ではござりませぬとその夜冬吉が金輪奈落の底尽きぬ腹立ちただいまと小露が座敷戻りの挨拶も長坂橋の張飛睨んだばかりの勢いに小露は顫え上りそれから明けても三国割拠お互いに気まずく笑い声はお隣のおばさんにも下し賜わらず長・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・私が自分の部屋に戻って障子の切り張りを済ますころには、茶の間のほうで子供らのさかんな笑い声が起こった。お徳のにぎやかな笑い声もその中にまじって聞こえた。 見ると、次郎は雛壇の前あたりで、大騒ぎを始めた。暮れの築地小劇場で「子供の日」のあ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・しかし以前のような賑かな笑い声は次第に減って行った。皆な黙って働くように成った。 教員室は以前の幹事室兼帯でも手狭なので、二階の角にあった教室をあけて、そっちの方へ引越した。そこに大きな火鉢を置いた。鉄瓶の湯はいつでも沸いていた。正木大・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ひとが何かいうと、けッという奇怪な、からす天狗の笑い声に似た不愉快きわまる笑い声を、はばからず発するのである。ゲエテ一点張りである。これとても、ゲエテの素朴な詩精神に敬服しているのではなく、ゲエテの高位高官に傾倒しているらしい、ふしが、無い・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・まわない、そんな、道徳なんてどうだっていい、ただ少しでも、しばらくでも、気持の楽な生き方をしたい、一時間でも二時間でもたのしかったらそれでいいのだ、という考えに変って、夫をつねったりして、家の中に高い笑い声もしばしば起るようになった矢先、或・・・ 太宰治 「おさん」
・・・ついにはこの男と少女ということが文壇の笑い草の種となって、書く小説も文章も皆笑い声の中に没却されてしまった。それに、その容貌が前にも言ったとおり、このうえもなく蛮カラなので、いよいよそれが好いコントラストをなして、あの顔で、どうしてああだろ・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・という妖魔の笑い声が飛び出した形に書き添えてあるのが特別の興味を引く。 その他にもたとえば「雪女郎」の絵のあるページの片すみに「マツオオリヒシグ」としるしたり、また「平家蟹」の絵の横に「カゲノゴトクツキマタウ」と書いて、あとで「マタウ」・・・ 寺田寅彦 「小泉八雲秘稿画本「妖魔詩話」」
・・・突然向うの曲り角から愉快な子供の笑い声が起って周圍の粛殺を破った。あたかも老翁の過去の歓喜の声が、ここに一時反響しているかのごとく。 寺田寅彦 「凩」
・・・ ――すれちがうとき、女はつれの小娘に肩をぶっつけるようにしてまた笑い声をたてた。ひびく声であった。三吉は橋の袂までいって、すぐあと戻りした。流れのはやさと一緒になって坂をのぼり、熊本城の石垣をめぐって、田甫に沿うた土堤うえの道路にでる・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫