・・・が、その笑声の終らぬ中に、客はフト気中りがして、鵞鳥が鋳損じられた場合を思った。デ、好い図ですネ、と既に言おうとしたのを呑んでしまった。 主人は、「気中りがしてもしなくても構いませんが、ただ心配なのは御前ですからな。せっかくご天覧い・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・イなるほどそうですネ、と云っていると、東坡巾の先生はてんぜんとして笑出して、君そんなに感服ばかりしていると、今に馬糞の道傍に盛上がっているのまで春の景色だなぞと褒めさせられるよ、と戯れたので一同哄然と笑声を挙げた。 東坡巾先生は道行振の・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・一しきりはずんで聞えた客の高い笑声も沈まってしまった。さかんな食慾を満たそうとする人達は、ほんとうにうまいものに有りついた最中らしい。話声一つ泄れて来なかった。静かだ。「どうぞ、御隠居さん、ゆっくり召上って下さいまし。今日はわたしにお給・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・時々高い笑声が起る。小猫は黒毛の、眼を光らせた奴で、いつの間にか二人の腰掛けている方へ来て鳴いた。やがて原の膝の上に登った。「好きな人は解るものと見えるね」と相川は笑いながら原が小猫の頭を撫でてやるのを眺めた。「それはそうと、原君、・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・話声もしない。笑声もしない。青い目で空を仰ぐような事もない。鈍い、悲しげな、黒い一団をなして、男等は並木の間を歩いている。一方には音もなくどこか不思議な底の方から出て来るような河がある。一方には果もない雪の原がある。男等の一人で、足の長い、・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・次兄も、れいのけッという怪しい笑声を発した。末弟は、ぶうっとふくれて、「僕は、そのおじいさんは、きっと大数学者じゃないか、と思うのです。きっと、そうだ。偉い数学者なんだ。もちろん博士さ。世界的なんだ。いまは、数学が急激に、どんどん変って・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・しばらくして、宿の廊下が、急にどたばた騒がしくなり、女中さんたちの囁き、低い笑声も聞える。私は、兄の叱咤の言よりも、そのほうに、そっと耳をすましていた。ふっと一言、聴取出来た。私は、敢然と顔を挙げ、「提燈行列です。」と兄に報告した。・・・ 太宰治 「一燈」
・・・注連飾などが見事に出来て賑やかな笑声が其処此処からきこえて来た。 しかし勇吉はじっとしてはいられなかった。正月の初めにもっと家賃の安い家を別な方面にさがして、遁げるようにして移転して行った。刑事の監視をのがれたいという腹もあった。出来る・・・ 田山花袋 「トコヨゴヨミ」
・・・女中部屋の方では陽気な笑声がもれる。戸外の景色に引きかえて此処はいつものように平和である。 嵐の話になって婆さんは古い記憶の中から恐ろしくも凄かった嵐を語る。辰さんが板敷から相槌をうつ。いつかの大嵐には黒い波が一町に余る浜を打上がって松・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・大広間からは時々賑やかな朗らかな笑声が聞こえていた。数分間ごとに爆笑と拍手の嵐が起こる。その笑声が大抵三声ずつ約二、三秒の週期で繰返されて、それでぱったり静まるのである。こうした場合に人間の笑うのにはただ一と声笑っただけではどうにも収まらな・・・ 寺田寅彦 「高原」
出典:青空文庫