・・・娘は、濁りなき笑顔で応じた。「誓ったのだもの。飲むわけないわ。ここではお芝居およしなさいね」 てんから疑って呉れなかった。 男は、キネマ俳優であった。岡田時彦さんである。先年なくなったが、じみな人であった。あんな、せつなかったこと、・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・それがたび重なると、笑顔の美しいことも、耳の下に小さい黒子のあることも、こみ合った電車の吊皮にすらりとのべた腕の白いことも、信濃町から同じ学校の女学生とおりおり邂逅してはすっぱに会話を交じゆることも、なにもかもよく知るようになって、どこの娘・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・音楽と運動の律動につれて、この笑顔にも一種の律動的変化を感じる事が出来る。 柿色の顔と萌黄色の衣装の配合も特殊な感じを与える。頭に冠った鳥冠の額に、前立のように着けた鳥の頭部のようなものも不思議な感じを高めた。私はこの面の顔の表情に、ど・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・中には唯笑顔を見せただけで、呼止めたって上る気のないものは上りゃしないといわぬばかり、おち付いて黙っているのもある。 女の風俗はカフェーの女給に似た和装と、酒場で見るような洋装とが多く、中には山の手の芸者そっくりの島田も交っている。服装・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・死金ばかりは使わず、きれるところにはきれもするので、新造や店の者にはいつも笑顔で迎えられていたのであった。「寒いッたッて、箆棒に寒い晩だ。酒は醒めてしまッたし、これじゃアしようがない。もうなかッたかしら」と、徳利を振ッて見て、「だめだ、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ 下女は妙な笑顔をした。「あの、奥さんがお客様にお断り申してくれとそうおっしゃいました。」「ええ。どうも分からないな。お断り申せとはどう云うのだね。奥さんはおいでになるが、お逢いにならないと云うのかい。」「いいえ。奥さんは拠ない・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・ 矢張り笑顔のまま、大きな女のひとはくるりと、私共の方に背を向けた。一目見、自分は大声で泣き出した。背中に小猿をくくり付けでもしたように、赤い着物の女の子が、小さく、かーんと強張って背負われて居るのだ。「河に身を投げたのだ」と誰・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・印度の港で魚のように波の底に潜って、銀銭を拾う黒ん坊の子供の事や、ポルトセエドで上陸して見たと云う、ステレオチイプな笑顔の女芸人が種々の楽器を奏する国際的団体の事や、マルセイユで始て西洋の町を散歩して、嘘と云うものを衝かぬ店で、掛値と云うも・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・すると、ふと、彼は初めて妻を見たときの、あの彼女のただ彼のみに赦されてあるかのような健かな笑顔を思い出した。彼は涙がにじんで来た。彼はソッと妻の上にかがみ込むと、花の匂いの中で彼女の額に接吻した。「お前は、俺があの汚い二階の紙屑の中に坐・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・ところがあの通りこの上もない出世をして、重畳の幸福と人の羨むにも似ず、何故か始終浮立ぬようにおくらし成るのに不審を打ものさえ多く、それのみか、御寵愛を重ねられる殿にさえろくろく笑顔をお作りなさるのを見上た人もないとか、鬱陶しそうにおもてなし・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫