・・・ 伝右衛門は、座につくと、太い眉毛を動かしながら、日にやけた頬の筋肉を、今にも笑い出しそうに動かして、万遍なく一座を見廻した。これにつれて、書物を読んでいたのも、筆を動かしていたのも、皆それぞれ挨拶をする。内蔵助もやはり、慇懃に会釈をし・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・「僕は筋肉労働者ですが、C先生から先生に紹介状を貰いましたから」青年は無骨そうにこう云った。自分は現在蟇口に二三円しかなかったから、不用の書物を二冊渡し、これを金に換え給えと云った。青年は書物を受け取ると、丹念に奥附を検べ出した。「この本は・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・色の浅黒い、筋肉の引き緊った、多少疳癖のあるらしい顔には決心の影さえ仄めいている。治修はまずこう尋ねた。「三右衛門、数馬はそちに闇打ちをしかけたそうじゃな。すると何かそちに対し、意趣を含んで居ったものと見える。何に意趣を含んだのじゃ?」・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・他愛のない夢から一足飛びにこの恐ろしい現実に呼びさまされた彼れの心は、最初に彼れの顔を高笑いにくずそうとしたが、すぐ次ぎの瞬間に、彼れの顔の筋肉を一度気にひきしめてしまった。彼れは顔中の血が一時に頭の中に飛び退いたように思った。仁右衛門は酔・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・そのなよなよした姿のほほえみが血球となって、僕の血管を循環するのか、僕は筋肉がゆるんで、がッかり疲労し、手も不断よりは重く、足も常よりは倦怠いのをおぼえた。 僕の過敏な心と身体とは荒んでいるのだ。延びているのだ。固まっていた物が融けて行・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 顔の筋肉一つ動かさずに言った。 妙な夫婦もあるものだ。こんな夫婦の子供はどんな風に育てられているのだろうと、思ったので、「お子さんおありなんでしょう?」 と、訊くと、「子供はあれしませんの。それで、こうやってこの温泉へ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ お加代の顔には瞬間さっと不安な翳が走ったが、豹吉は顔の筋肉一つ動かさず、ぼそんとした浮かぬ表情を、重く沈ませていた。「……刑事の手が廻った」 という言葉の効果を期待していた亀吉は、簡単にすかされて、ひょいと首をひっ込ませる・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・しかしこれは咳が癒ったのではなくて、咳をするための腹の筋肉がすっかり疲れ切ってしまったからで、彼らが咳をするのを肯じなくなってしまったかららしい。それにもう一つは心臓がひどく弱ってしまって、一度咳をしてそれを乱してしまうと、それを再び鎮める・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。 以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼を晒し終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐ・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・身体中の筋肉が、ぶちのめされるように疲れている。頭がぼんやりして耳が鳴る。 だが、中隊長は、彼を休ませようとはしなかった。「おい行くんだ。もっとよく探して見ろ!」 ふらふら歩いていた松木は、疲れた老馬が鞭のために、最後の力を搾る・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
出典:青空文庫