・・・そして顔の筋肉が痙攣を起した。「ハイ。」 栗本はドキリとした。と、彼も頬がピク/\慄え引きつりだした。「今、ここに呼んだ者は、あした朝食後退院。いゝか!」 同じように、にこ/\しながら看護長は扉を押して次の病室へ出て行った。・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・そこにいる者は、脚の趾か、手の指か、或はどっかの筋肉か、骨か、切り取られていない者は殆どなかった。家にはよろけた親爺さんか、不具者になった息子か、眼が悪い幼児をかゝえていた。女達はよく流産をした。子供は生れても乳がなくなって死んで行くのが少・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・扣鈕を掛けたジャケツの下で、男等の筋肉が、見る見る為事の恋しさに張って来る、顫えて来る。目は今までよりも広くかれて輝いている。「ええ。あの仲間へ這入ってこの腕を上げ下げして、こちとらの手足の中にある力を鉄の上に加えて見たい。あの目の下に見え・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・大学を卒業して雑誌社に勤務するようになってからも同じ事で、大隅君は皆に敬遠せられ、意地の悪い二、三の同僚は、大隅君の博識を全く無視して、ほとんど筋肉労働に類した仕事などを押しつける始末なので、大隅君は憤然、職を辞した。大隅君は昔から、決して・・・ 太宰治 「佳日」
・・・云わば『精神的の筋肉』を得てこれを養成しなければならない。それがためには語学の訓練はあまり適しない。それよりは自分で物を考えるような修練に重きを置いた一般的教育が有効である。」「尤も生徒の個性的傾向は無論考えなければならない。通例そのよ・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・ところがその翌日は両方の大腿の筋肉が痛んで階段の上下が困難であった。昨日鬼押出の岩堆に登った時に出来た疲労素の中毒であろう。これでは十日計画の浅間登山プランも更に考慮を要する訳である。 宿の夜明け方に時鳥を聞いた。紛れもないほととぎすで・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・従って顔の小じわの一つ一つ、その筋肉の微細な運動までが異常に郭大される。指先の神経的な微動でもそれが恐ろしくこくめいに強調されて見える。それだから大写しの顔や手は、決して「芝居」をしてはいけないことになっている。それをするといやみで見ていら・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・ 爺さんはそこまで話して来ると、目を屡瞬いて、泣面をかきそうな顔を、じっと押堪えているらしく、皺の多い筋肉が、微かに動いていた。煙管を持つ手や、立てている膝頭のわなわな戦いているのも、向合っている主の目によく見えた。「忘れもしねえ、・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・四肢胸腰の運動だっても人間の体質や構造に今までとは違ったところができて筋肉の働き方が一筋間違ってきたって、従来の能の型などは崩れなければならないでしょう。人間の思想やその思想に伴って推移する感情も石や土と同じように、古今永久変らないものと看・・・ 夏目漱石 「中味と形式」
・・・必竟われらは一種の潮流の中に生息しているので、その潮流に押し流されている自覚はありながら、こう流されるのが本当だと、筋肉も神経も脳髄も、凡てが矛盾なく一致して、承知するから、妙だとか変だとかいう疑の起る余地が天で起らないのである。丁度葉裏に・・・ 夏目漱石 「マードック先生の『日本歴史』」
出典:青空文庫