・・・小さな箪笥もあった。しかしすべて一台で足りたのである。軒下には窶れた卅五六の女が乳飲児を負って悄然と立って車について行く処であった。其の日から、其の家の戸が閉って貸家となった。何処に行ったか知らない。『あの乳飲児は、誰の児だろうか?』と・・・ 小川未明 「ある日の午後」
・・・ お光は店を揚って、脱いだ両刳りの駒下駄と傘とを、次の茶の間を通り抜けた縁側の隅の下駄箱へ蔵うと、着ていた秩父銘撰の半纏を袖畳みにして、今一間茶の間と並んだ座敷の箪笥の上へ置いて、同じ秩父銘撰の着物の半襟のかかったのに、引ッかけに結んだ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・そのまた隣の、一番よく見える窓のなかには、箪笥などに並んで燈明の灯った仏壇が壁ぎわに立っているのであった。石田にはそれらの部屋を区切っている壁というものがはかなく悲しく見えた。もしそこに住んでいる人の誰かがこの崖上へ来てそれらの壁を眺めたら・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・しかし確に箪笥を開ける音がした、障子をするすると開ける音を聞いた、夢か現かともかくと八畳の間に忍足で入って見たが、別に異変はない。縁端から、台所に出て真闇の中をそっと覗くと、臭気のある冷たい空気が気味悪く顔を掠めた。敷居に立って豆洋燈を高く・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・布団を入れる押入れや、棚や、箪笥の抽斗を探してみた。けれども無い。納屋の蓆の下に置いて忘れているような気もした。納屋へ行って探して見た。だが探しても見あたらない。彼女は頭の組織が引っくりかえったようにぐら/\した。すべての物がばら/\に離れ・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・おふくろが満足したのは、トシエが二タ棹の三ツよせの箪笥に、どの抽出しへもいっぱい、小浜や、錦紗や、明石や、――そんな金のかかった着物を詰めこんで持って来たからである。虹吉が満足したのは、彼の本能的な実弾射撃が、てき面に、一番手ッ取り早く、功・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・私たちは宿屋の離れ座敷にあった古い本箱や机や箪笥なぞを荷車に載せ、相前後して今の住居に引き移って来たのである。 今の住所へは私も多くの望みをかけて移って来た。婆やを一人雇い入れることにしたのもその時だ。太郎はすでに中学の制服を着る年・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ 書生が出て行った後、大塚さんはその部屋の内を歩いて、そこに箪笥が置いてあった、ここに屏風が立て廻してあった、と思い浮べた。襖一つ隔てて直ぐその次にある納戸へも行って見た。そこはおせんが鏡に向って髪をとかした小部屋だ。彼女の長い着物・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・彼等は内の箪笥の抽斗にまだ幾らかの金を持っている人達で、もし無心でも言われてはならないと思ったのである。その外の男等は冷淡に踵を旋らして、もと来た道へ引き返した。頭を垂れて、唇を噛みながらゆるやかに引返した。この男等は、人に分けてやるような・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・もうこれぎり実家へ帰って死んでしまうと言って、箪笥から着物などを引っ張りだす。やがて二人で大立廻りをやって、女房は髪を乱して向いの船頭の家へ逃げこむやら、とうと面倒なことになったが、とにかく船頭が仲裁して、お前たちも、元を尋ねると踊りの晩に・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫