・・・一緒に歩いていると、見る物聞く物黒田が例の奇警な観察を下すのでつまらぬ物が生きて来る。途上の人は大きな小説中の人物になって路傍の石塊にも意味が出来る。君は文学者になったらいいだろうと自分は言った事もあるが、黒田は医科をやっていた。 あの・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・ 残る二人は夢の詩か、詩の夢か、ちょと解しがたき話しの緒をたぐる。「女の夢は男の夢よりも美くしかろ」と男が云えば「せめて夢にでも美くしき国へ行かねば」とこの世は汚れたりと云える顔つきである。「世の中が古くなって、よごれたか」と聞けば・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・棕梠緒の貸下駄には都らしく宿の焼印が押してある。 二「この湯は何に利くんだろう」と豆腐屋の圭さんが湯槽のなかで、ざぶざぶやりながら聞く。「何に利くかなあ。分析表を見ると、何にでも利くようだ。――君そんなに、・・・ 夏目漱石 「二百十日」
『学問の独立』緒言 近年、我が日本において、都鄙上下の別なく、学問の流行すること、古来、未だその比を見ず。実に文運降盛の秋と称すべし。然るに、時運の然らしむるところ、人民、字を知るとともに大いに政治の思想を喚・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・粉にする筧かけとる谷水にうち浸しゆれば白露手にこぼれくる黒けぶり群りたたせ手もすまに吹鑠かせばなだれ落るかね鑠くれば灰とわかれてきはやかにかたまり残る白銀の玉銀の玉をあまたに筥に収れ荷緒かためて馬馳らするしろがねの荷負る・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・さっきの泉で洗いますから、下駄をお借老人は新らしい山桐の下駄とも一つ縄緒の栗の木下駄を気の毒そうに一つもって来た。(いいえもう結構 二人はわらじを解いてそれからほこりでいっぱいになった巻脚絆をたたいて巻き俄かに痛む膝をまげるようにし・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・今日ではもう個人的解決の時期を全くすぎていて、これは人民的規模において、男女共通に、共通の方法に参加して、各種の管理委員会をこしらえて、自主的な圧力で改善してゆくことに決心したら、どんなに早く、解決の緒につくことだろう。配給と買出しにしばら・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・ 津崎の家では往生院を菩提所にしていたが、往生院は上のご由緒のあるお寺だというのではばかって、高琳寺を死所ときめたのである。五助が墓地にはいってみると、かねて介錯を頼んでおいた松野縫殿助が先に来て待っていた。五助は肩にかけた浅葱の嚢をお・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・と兜の緒を緊めてくれる母親が涙を噛み交ぜて忠告する。ても耳の底に残るように懐かしい声、目の奥に止まるほどに眤しい顔をば「さようならば」の一言で聞き捨て、見捨て、さて陣鉦や太鼓に急き立てられて修羅の街へ出かければ、山奥の青苔が褥となッたり、河・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ただ一度かの暖かき手を握りたい、ああ玉の緒の絶え行く前に今一度彼の膝に……と狂人のように猛り立つ。びたる鉄鎖はただ重げに音するのみである。かくて兄弟の膝に怨みの涙、憤怒の涙は流るるとも「道義」のために彼らは断乎として嘆かぬ。吾人はレマン湖畔・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫