・・・鐘が淵紡績の煙突草後に聳え、右に白きは大学のボートハウスなるべし、端艇を乗り出す者二、三。前は桜樹の隧道、花時思いやらる。八重桜多き由なれど花なければ吾には見分け難し。植半の屋根に止れる鳶二羽相対してさながら瓦にて造れるようなるを瓦じゃ鳥じ・・・ 寺田寅彦 「半日ある記」
・・・ 鐘ヶ淵の紡績会社や帝国大学の艇庫は自分がまだ隅田川を知らない以前から出来ていたものである。それらの新しい勢力は事実において日に日に土手や畠や河岸や蘆の茂りを取払って行きつつあるが、しかし何らの感化をも自分の心の上には及ぼさなかったのだ・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・千住の製絨所か鐘が淵紡績会社かの汽笛がはるかに聞えて、上野の明け六時の鐘も撞ち始めた。「善さん、しッかりなさいよ、お紙入れなんかお忘れなすッて」と、お熊が笑いながら出した紙入れを、善吉は苦笑いをしながら胸もあらわな寝衣の懐裡へ押し込んだ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・日本の紡績工業者は、新卒業子女の大部分に当る十万八千三百六十八人を就職させようとしているが、日本の紡績工業界は永年、少女たちを搾取する傾向で世界に有名である。このような封建的な思想を違法とするいくつかの法律がきめられたが、少女たちも親たちも・・・ 宮本百合子 「新しい卒業生の皆さんへ」
・・・市内のある工廠で一挙に数百人の女工を求めて来たので、市の紹介所は、小紡績工場の操短で帰休している娘たちを八王子辺から集めて、やっとその需要にこたえた状態である。 さらに他方には、東京の巣鴨にある十文字こと子女史が経営している十文字高等女・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・紡織は、イギリスで蒸気の力で紡績機械を運転することを発見して産業革命があって後、繊維産業というものが世界中ですっかり変ってしまった。 今日の紡績工場は耳が聾になるほどうるさい。何千という錘が絶え間なく廻っている。そこに十四五から、七八く・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・少女はまた昔のように紡績工場に働き、売られて行く子もふえました。 この春中学校を卒業しても就職できなかった多勢の少年、少女とその親とのきょうの暮しは、どんなこころもちでしょう。 母たちが「うちのこだけは」と個人のがんばりでりきむだけ・・・ 宮本百合子 「親子いっしょに」
・・・ お千代ちゃんは、地味な白絣の紡績の着物に海老茶袴をつけている。 小学校を最優等でお千代ちゃんは卒業し、日比谷公園へ行って市長の褒美を貰った。その時、お千代ちゃんはやっぱり地味な紡績の元禄を着て海老茶袴をつけて出た。新聞が、それを質・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・明治の紡績とか戦争の間にも女はどんどん働かされましたけれども、失業の時には勘定しておりません。けれどもブルジョア民主主義、つまり資本主義民主国では、やはり女の失業も失業者の数のなかに入れております。婦人が失業したら母性の痛められ方が男性より・・・ 宮本百合子 「幸福の建設」
・・・ 中條様」 紡績絣に赤い帯をしめた小娘のヤスの姿と、俄にガランとした家と、そこに絡んでいるスパイの気配とをまざまざ実感させる文章であった。仰々しい見出しで、恐らくは写真までをのせて書き立てた新聞記事によって動乱したらしい外・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫