・・・東京まで付いて来てくれた一人の学生は、お前たちの中の一番小さい者を、母のように終夜抱き通していてくれた。そんな事を書けば限りがない。ともかく私たちは幸に怪我もなく、二日の物憂い旅の後に晩秋の東京に着いた。 今までいた処とちがって、東京に・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・この星は、終夜、下の世界を見守っている、やさしい星でありました。「いえ、いま起きている人があります。私は一軒の貧しげな家をのぞきますと、二人の子供は、昼間の疲れですやすやとよく休んでいました。姉のほうの子は、工場へいって働いているのです・・・ 小川未明 「ある夜の星たちの話」
・・・親父も弁公も昼間の激しい労働で熟睡したが文公は熱と咳とで終夜苦しめられ、明け方近くなってやっと寝入った。 短夜の明けやすく、四時半には弁公引き窓をあけて飯をたきはじめた。親父もまもなく起きて身じたくをする。 飯ができるや、まず弁公は・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・ 林の貫きて真直に通う路あり、車もようよう通い得るほどなれば左右の梢は梢と交わり、夏は木の葉をもるる日影鮮やかに落ちて人の肩にゆらぎ、冬は落ち葉深く積みて風吹く終夜物のささやく音す。一年と五月の間にかれこの路を往来せしことを幾度ぞ。この・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 春先とはいえ、寒い寒い霙まじりの風が広い武蔵野を荒れに荒れて終夜、真っ闇な溝口の町の上をほえ狂った。 七番の座敷では十二時過ぎてもまだランプが耿々と輝いている。亀屋で起きている者といえばこの座敷の真ん中で、差し向かいで話している二・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・そして終夜働いて、翌日はあの戦争。敵の砲弾、味方の砲弾がぐんぐんと厭な音を立てて頭の上を鳴って通った。九十度近い暑い日が脳天からじりじりと照りつけた。四時過ぎに、敵味方の歩兵はともに接近した。小銃の音が豆を煎るように聞こえる。時々シュッシュ・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・彼は馬に乗って終日終夜野を行くに疲れた事のない男である。彼は一片の麺麭も食わず一滴の水さえ飲まず、未明より薄暮まで働き得る男である。年は二十六歳。それで戦が出来ぬであろうか。それで戦が出来ぬ位なら武士の家に生れて来ぬがよい。ウィリアム自身も・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・はた十銭のはたごに六部道者と合い宿の寝言は熟眠を驚かし、小石に似たる飯、馬の尿に似たる渋茶にひもじ腹をこやして一枚の木の葉蒲団に終夜の寒さを忍ぶ。いずれか風流の極意ならざる。われ浮世の旅の首途してよりここに二十五年、南海の故郷をさまよい出で・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・葛の花は終夜、砂地に立つ電燈の光を受けた。〔一九二七年十一月〕 宮本百合子 「黒い驢馬と白い山羊」
・・・ 今、此の静安な夜の空の下に、深く眠る幸福な人々よ、 又、終夜泣きぬれて、宿命の不幸に歎く人々よ、 卿等総ての上に福祉あれ! 彼女は、優しい涙にぬれた感動をもって、醒めた、居睡った無数の生霊の上に、頭を垂れたのである。・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
出典:青空文庫