・・・分はひとり、渡し船の舷に肘をついて、もう靄のおりかけた、薄暮の川の水面を、なんということもなく見渡しながら、その暗緑色の水のあなた、暗い家々の空に大きな赤い月の出を見て、思わず涙を流したのを、おそらく終世忘れることはできないであろう。 ・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・ 父の教育からいえば、父の若い時代としては新しい教育を受けた方だが、その根柢をなしているものはやはり朱子学派の儒学であって、その影響からは終生脱することができなかった。しかしどこか独自なところがあって、平生の話の中にも、その着想の独創的・・・ 有島武郎 「私の父と母」
・・・ そこにおいて、終生……つまらなく言えば囲炉裡端の火打石です。神聖に云えば霊山における電光です。瞬間に人間の運命を照らす、仙人の黒き符のごとき電信の文字を司ろうと思うのです。 が、辞令も革鞄に封じました。受持の室の扉を開けるにも、鍵・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ 宜しこそ、近藤は、執着の極、婦人をして我に節操を尽さしめんか、終生空閨を護らしめ、おのれ一分時もその傍にあらずして、なおよく節操を保たしむるにあらざるよりは、我に貞なりとはいうことを得ずとなし、はじめよりお通の我を嫌うこと、蛇蝎もただ・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・使用人同様の玄関番の書生の身分で主人なり恩師なりの眼を窃んでその名誉に泥を塗るいおうようない忘恩の非行者を当の被害者として啻に寛容するばかりでなく、若気の一端の過失のために終生を埋もらせたくないと訓誡もし、生活の道まで心配して死ぬまで面倒を・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・三 二葉亭は長生きしても終生煩悶の人 それなら二葉亭は旧人として小説を書くに方っても天下国家を揮廻しそうなもんだが、芸術となるとそうでない。二葉亭の対露問題は多年の深い研究とした夙昔の抱負であったし、西伯利から満洲を放浪し、・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・ こういうようなことが書いてありました。終生独身で過ごした、B医師はバラック式であったが、有志の助力によって、慈善病院を建てたのは、それから以後のことであります。もちろん、老人の志も無とならなかったばかりか、B医師は、老人の好きだったら・・・ 小川未明 「三月の空の下」
・・・中にも念仏信者の地頭東条景信は瞋恚肝に入り、終生とけない怨恨を結んだ。彼は師僧道善房にせまって、日蓮を清澄山から追放せしめた。 このときの消息はウォルムスにおけるルーテルの行動をわれわれに髣髴せしめる。「道善御房は師匠にておはし・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・また花山法皇は御年十八歳のとき最愛の女御弘徽殿の死にあわれ、青春失恋の深き傷みより翌年出家せられ、花山寺にて終生堅固な仏教求道者として過ごさせられた。実に西国巡礼の最初の御方である。また最近の支那事変で某陸軍大尉の夫人が戦死した夫の跡を追い・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・ わが終生の祈願 天にもとどろきわたるほどの、明朗きわまりなき出世美談を、一篇だけ書くこと。 わが友 ひとこと口走ったが最後、この世の中から、完全に、葬り去られる。そんな胸の奥の奥にしまってい・・・ 太宰治 「碧眼托鉢」
出典:青空文庫