・・・それは従来の経験によると、たいてい嗅覚の刺戟から聯想を生ずる結果らしい。そのまた嗅覚の刺戟なるものも都会に住んでいる悲しさには悪臭と呼ばれる匂ばかりである。たとえば汽車の煤煙の匂は何人も嗅ぎたいと思うはずはない。けれどもあるお嬢さんの記憶、・・・ 芥川竜之介 「お時儀」
・・・それはなにも監督が不正なことをしていたからではなく会計上の知識と経験との不足から来ているのに相違ないのだが、父はそこに後ろ暗いものを見つけでもしたようにびしびしとやり込めた。 彼にはそれがよく知れていた。けれども彼は濫りなさし出口はしな・・・ 有島武郎 「親子」
・・・時が過ぎてしまえば間もなく忘れるような、乃至は長く忘れずにいるにしても、それを言い出すには余り接穂がなくてとうとう一生言い出さずにしまうというような、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験している。多くの人はそれを軽蔑してい・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 私は汗じみた手拭を、懐中から――空腹をしめていたかどうかはお察し下さい――懐中から出すと、手代が一代の逸話として、よい経験を得たように、しかし、汚らしそうに、撮んで拡げました。と反りかえった掛声をして、(みどり屋、・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・予は未だ欧洲人に知人もなく、従て彼等の食卓に列した経験もないので其真相を知り居らぬが、種々な方面より知り得たる処では、吾国の茶の湯と其精神酷だ相似たるを発見するのである、それはさもあるべき事であろう、何ぜなれば同じ食事のことであるから其興味・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・どうともなるようになれ、自分は、どんな難局に当っても、消えることはなく、かえってそれだけの経験を積むのだと、初めから焼け気味のある僕だから、意地にもわざと景気のいい手紙を書き、隣りの芸者にはいろいろ世話になるが、情熱のある女で――とは、その・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・正直に平たく白状さしたなら自分の作った脚色を餅に搗いた経験の無い作者は殆んどなかろう。長篇小説の多くが尻切蜻蜒である原因の過半はこれである。二十八年の長きにわたって当初の立案通りの過程を追って脚色の上に少しも矛盾撞着を生ぜしめなかったのは稀・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・私自身の経験によっても私は文天祥がドウ書いたか、白楽天がドウ書いたかと思っていろいろ調べてしかる後に書いた文よりも、自分が心のありのままに、仮名の間違いがあろうが、文法に合うまいが、かまわないで書いた文の方が私が見ても一番良い文章であって、・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・わたくしが、この世に生れる前と、生れてからとで経験しました、第一期、第二期の生活では、それが教えられずにしまいました。」 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・しかも、人が苦しみを経験し、若しくは苦痛を経験し、若しくは生活上の奮闘を余儀なくされている場合、社会の同情、博愛、慈善事業、宗教家等に依って救うということは何時まで経ってもその人間に本当の霊を見せずにしまうものである。極端なる苦痛は最後に確・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
出典:青空文庫