・・・ 一個の幼児を抱きたるが、夜深けの人目なきに心を許しけん、帯を解きてその幼児を膚に引き緊め、着たる襤褸の綿入れを衾となして、少しにても多量の暖を与えんとせる、母の心はいかなるべき。よしやその母子に一銭の恵みを垂れずとも、たれか憐れと思わ・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・新モスの胴着や綿入れは、やはり同じ下宿人の会社員の奥さんが縫ってくれて、それもできてきて、彼女の膝の前に重ねられてあった。「いったいどんな気がしているのかなあ?……あんなことをしていて。……やはり男性には解らない感じのものかもしれないな・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・顔を出したのは大隊副官と、綿入れの外套に毛の襟巻をした新聞特派員だった。「寒い満洲でも、兵タイは、こういう温い部屋に起居して居るんで……」「はア、なる程。」特派員は、副官の説明に同意するよりさきに、部屋の内部の見なれぬ不潔さにヘキエ・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・「この縞は綿入れにしてやろうと思うて――」「うむ。」 お里は、よく物を見てから借りて来たのであろう反物を、再び彼の枕頭に拡げて縞柄を見たり、示指と拇指で布地をたしかめたりした。彼女は、彼の助言を得てから、何れにかはっきり買うもの・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・そして笑われるだろうと云いながら、やはり田舎縞の綿入れを着ていた。「この方が温くうてえい!」 五 じいさんは所在なさに退屈がって、家の前にある三坪ほどの空地をいじった。「あの鍬をやってしまわずに、一挺持って・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・薩州の国守からもらった茶色の綿入れ着物を着ていたけれど、寒そうであった。座につくと、静かに右手で十字を切った。 白石は通事に言いつけて、シロオテの故郷のことなど問わせ、自分はシロオテの答える言葉に耳傾けていた。その語る言葉は、日本語にち・・・ 太宰治 「地球図」
・・・めだかの模様の襦袢に慈姑の模様の綿入れ胴衣を重ねて着ている太郎は、はだしのままで村の馬糞だらけの砂利道を東へ歩いた。ねむたげに眼を半分とじて小さい息をせわしなく吐きながら歩いた。 翌る朝、村は騒動であった。三歳の太郎が村からたっぷり一里・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・ 吉里は髪を櫛巻きにし、お熊の半天を被ッて、赤味走ッたがす糸織に繻子の半襟を掛けた綿入れに、緋の唐縮緬の新らしからぬ長襦袢を重ね、山の入ッた紺博多の男帯を巻いていた。ちょいと見たところは、もう五六歳も老けていたら、花魁の古手の新造落ちと・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・あるいは身幅の適したるものにても、田舎の百姓に手織木綿の綿入れを脱がしめ、これに代るに羽二重の小袖をもってすれば、たちまち風を引て噴嚔することあらん。 一国の政治は、いかにもその人民の智愚に適するのみならず、またその性質にも適せざるべか・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・元村長をした人の後家のところでは一晩泊って、綿入れの着物と毛糸で編んだ頭巾とを貰った。古びた信玄袋を振って、出かけてゆく姿を、仙二は嫌悪と哀みと半ばした気持で見た。「ほ、婆さま真剣だ。何か呉れそうなところは一軒あまさずっていう形恰だ」・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
出典:青空文庫