・・・その掛茶屋は、松と薄で取廻し、大根畠を小高く見せた周囲五町ばかりの大池の汀になっていて、緋鯉の影、真鯉の姿も小波の立つ中に美しく、こぼれ松葉の一筋二筋辷るように水面を吹かれて渡るのも風情であるから、判事は最初、杖をここに留めて憩ったのである・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 宗吉は――煙草は喫まないが――その火鉢の傍へ引籠ろうとして、靴を返しながら、爪尖を見れば、ぐしょ濡の土間に、ちらちらとまた紅の褄が流れる。 緋鯉が躍ったようである。 思わず視線の向うのと、肩を合せて、その時、腰掛を立上った、も・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 白雪の飛ぶ中に、緋鯉の背、真鯉の鰭の紫は美しい。梅も松もあしらったが、大方は樫槻の大木である。朴の樹の二抱えばかりなのさえすっくと立つ。が、いずれも葉を振るって、素裸の山神のごとき装いだったことは言うまでもない。 午後三時ごろであ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・「先生、見事な緋鯉でしょう?」「見事だね。」すぐ次にうつる。「先生、これ鮎。やっぱり姿がいいですね。」「ああ、泳いでるね。」次にうつる。少しも見ていない。「こんどは鰻です。面白いですね。みんな砂の上に寝そべっていやがる。・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・池には鯉と緋鯉とすっぽんがいる。五六年まえまでには、ひとつがいの鶴が遊んでいた。いまでも、この草むらには蛇がいる。雁や野鴨の渡り鳥も、この池でその羽を休める。庭園は、ほんとうは二百坪にも足りないひろさなのであるが、見たところ千坪ほどのひろさ・・・ 太宰治 「逆行」
・・・二尺ちかい緋鯉がゆらゆら私たちの床几の下に泳ぎ寄って来た。「きのうまでは、学生だったんだ。きょうからは、ちがうんだ。どうでもいいじゃないか、そんな事は。」少年は、元気よく答える。「そうだね。僕もあまり人の身の上に立ちいることは好まな・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・大きな鯉、緋鯉がたくさん飼ってあって、このごろの五月雨に増した濁り水に、おとなしく泳いでいると思うとおりおりすさまじい音を立ててはね上がる。池のまわりは岩組みになって、やせた巻柏、椶櫚竹などが少しあるばかり、そしてすみの平たい岩の上に大きな・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
出典:青空文庫