・・・シャッチョコ張って、御不浄の戸を閉めるのにも気をつけて、口をきゅっと引きしめ、伏眼で廊下を歩き、郵便屋さんにもいい笑い声を使ってしとやかに応対するのですけれど、あたしは、やっぱり、だめなの。朝御飯のおいしそうな食卓を見ると、もうすっかりあの・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・若い女は丈伸をするほど手を延ばして吊革を握締める。その袖口からどうかすると脇の下まで見え透きそうになるのを、頻と気にして絶えず片手でメレンスの襦袢の袖口を押えている。車はゆるやかな坂道をば静かに心地よく馳せ下りて行く。突然足を踏まれた先刻の・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ 善吉は何か言おうとしたが、唇を顫わして息を呑んで、障子を閉めるのも忘れて、布団の上に倒れた。「畜生、畜生、畜生めッ」と、しばらくしてこう叫んだ善吉は、涙一杯の眼で天井を見つめて、布団を二三度蹴りに蹴った。「おや、何をしていらッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・述ぶるにも、其文に優美高尚なるものあり、粗野過激なるものあり、直筆激論、時として有力なることなきに非ざれども、文に巧なる人が婉曲に筆を舞わして却て大に読者を感動せしめて、或る場合には俗に言う真綿で首を締めるの効を奏することあり。男子の文章既・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・ 自分は、一言一言で母親を木偶につかっている権力の喉を締めるように、「私は、金なんぞ、だ、し、て、はいない」と云った。「わかったこと? 私は、だ、し、てはいないのよ」 母親のそばへずっとよって、耳元で云った。「おっか・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 私は云われる通りその部屋に入って襖を閉めると間もなく何かが玄関の土間に下された様な気合(がした。 すると、多勢の足音が入り乱れて大変重いものでも運ぶ様な物音が私の居るすぐ前に襖一つ越して響くと、急に私は震える程の恐れにとりつかれた・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・会社の方では儲がうすくなったから、これ以上損をすまいと勝手に閉めるのだが、その日から女房子供を抱えて路頭に迷わなければならない数百人の労働者達は、黙ってそうですかと引込んではおれない。かたまって事務所へ押しかけ、閉めるのは勝手だが、俺たちの・・・ 宮本百合子 「ドン・バス炭坑区の「労働宮」」
・・・女の赤い帽子、総ての色調を締める黒の男性散策者。 人は心を何ものかにうばわれたように歩く。……歩く。葉巻の煙、エルムの若葉の香、多くの窓々が五月の夕暮に向って開かれている。 やがて河から靄が上る。街燈が鉄の支柱の頂で燐を閃めかせ始め・・・ 宮本百合子 「わが五月」
・・・後に聞けば、勝手では朝起きて戸を閉めるまで、提灯に火を附けることにしている。提灯の柄の先に鉤が附いているのを、春はいつも長押の釘に懸けていたのだそうだ。その提灯を久に持っていろと云ったところが、久が面倒がって、提灯の柄で障子を衝き破って、提・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・跡について這入って戸を締める興行師も、大きい男ではないのに、二人の日本人はその男の耳までしかないのである。 ロダンの目は注意して物を視るとき、内眥に深く刻んだような皺が出来る。この時その皺が出来た。視線は学生から花子に移って、そこにしば・・・ 森鴎外 「花子」
出典:青空文庫