・・・何か君は出来ることがあるだろう――まあ、歌を唄うとか、御経を唱げるとか、または尺八を吹くとかサ。」「どうも是という芸は御座いませんが、尺八ならすこしひねくったことも――」と、男は寂しそうに笑い乍ら答えた。「むむ、尺八が吹けるね。それ・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・また過去の私が経歴と言っても、十一二歳のころからすでに父母の手を離れて、専門教育に入るまでの間、すべてみずから世波と闘わざるを得ない境遇にいて、それから学窓の三四年が思いきった貧書生、学窓を出てからが生活難と世路難という順序であるから、切に・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・顔は鋭い空気に晒されて、少なくも六十年を経ている。骨折沢山の生涯のために流した毒々しい汗で腐蝕せられて、褐色になっている。この顔は初めは幅広く肥えていたのである。しかし肉はいつの間にか皮の下で消え失せてしまって、その上の皮ががっしりした顴骨・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ほど経て横手からお長が白馬を曳いて上ってきた。何やら丸い物を運ぶのだと手真似で言って、いっしょに行かぬかと言うのである。自分はついて行く気になる。馬の腹がざわざわと薄の葉を撫でる。 そこを出ると水天宮の社である。あとで考えると、このへん・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・同町小学校を経て、大正十二年青森県立青森中学校に入学。昭和二年同校四学年修了。同年、弘前高等学校文科に入学。昭和五年同校卒業。同年、東京帝大仏文科に入学。若き兵士たり。恥かしくて死にそうだ。眼を閉じるとさまざまの、毛の生えた怪獣が見える。な・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・こういういたずらがいかに面白いものであるかはそれを経験したもののよく知るところである。小学や中学時代に校舎の二階の窓から向う側の建物の教場を照らして叱られた人も少なくないであろう。このいたずらの面白味は「光束」という自由自在の「如意棒」を振・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・ 大阪の町でも、私は最初来たときの驚異が、しばらく見ている間に、いつとなしにしだいに裏切られてゆくのを感じた。経済的には膨脹していても、真の生活意識はここでは、京都の固定的なそれとはまた異った意味で、頽廃しつつあるのではないかとさえ疑わ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・斎藤月岑の東都歳事記に挙ぐるものを見れば、谷中日暮里の養福寺、経王寺、大行寺、長久院、西光寺等には枝垂桜があり、根津の社内、谷中天王寺と瑞輪寺には名高い八重咲の桜があったと云う。 一昨年の春わたくしは森春濤の墓を掃いに日暮里の経王寺に赴・・・ 永井荷風 「上野」
・・・濁世にはびこる罪障の風は、すきまなく天下を吹いて、十字を織れる経緯の目にも入ると覚しく、焔のみははたを離れて飛ばんとす。――薄暗き女の部屋は焚け落つるかと怪しまれて明るい。 恋の糸と誠の糸を横縦に梭くぐらせば、手を肩に組み合せて天を仰げ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・然るに未だ一年をも経ない中に、眼を疾んで医師から読書を禁ぜられるようになった。遂にまた節を屈して東京に出て、文科大学の選科に入った。当時の選科生というものは惨じめなものであった、私は何だか人生の落伍者となったように感じた。学校を卒えてからす・・・ 西田幾多郎 「或教授の退職の辞」
出典:青空文庫