・・・私は寝ころんで新聞をひろげて見ていたが、どうにも、いまいましいので、隣室で縫物をしている家の者に聞えるようにわざと大きい声で言ってみた。「ひでえ野郎だ。」「なんですか。」家の者はつられた。「今夜は、お帰りが早いようですね。」「早いさ・・・ 太宰治 「誰」
・・・それだけで、静かに縫い物をつづけていた。濁った気配は、どこにも無かった。私は、Hを信じた。 その夜私は悪いものを読んだ。ルソオの懺悔録であった。ルソオが、やはり細君の以前の事で、苦汁を嘗めた箇所に突き当り、たまらなくなって来た。私は、H・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・家にいて、母と二人きりで黙って縫物をしていると、一ばん楽な気持でした。けれども、いよいよ大戦争がはじまって、周囲がひどく緊張してまいりましてからは、私だけが家で毎日ぼんやりしているのが大変わるい事のような気がして来て、何だか不安で、ちっとも・・・ 太宰治 「待つ」
・・・と、東京弁で断った。縫物も出来なかった。五月には、「お百姓なんて辛いもんだね、私にゃ半日辛棒もなりませんや」と、肩を動して笑った。――本当にこの永い一生、何をして生きて来たんだろう。村の人は、土地に馴れたという丈でやっと犬が吠な・・・ 宮本百合子 「秋の反射」
・・・馬琴の「白縫物語」、森鴎外の「埋木」と「舞姫」「即興詩人」などの合本になった、水泡集と云ったと思うエビ茶色のローズの厚い本。『太陽』の増刊号。これらの雑誌や本は、はじめさし絵から、子供であったわたしの生活に入って来ている。くりかえし、くりか・・・ 宮本百合子 「新しい文学の誕生」
・・・母親は、縫物の手を休めず、「ほんとにねえ」と大きく嘆息したが、「お父つぁんさえいてくれれば、こうまでひどい境涯にならずにいられたろうにねえ。お前だって人並みに学校へだってやれるんだのに……こうやって母子二人で食べるものを食べずに・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 洗濯、縫物なんて女の子だけの仕事みたいに思われているが、ソヴェト同盟のピオニェールはそれを男の子もします。 そのやりかたがまた面白い。 同じ十三でも男の子の十三は力があるから、この「五月一日の子供の家」では、男の子が洗濯物のア・・・ 宮本百合子 「従妹への手紙」
・・・けれども考えてみれば女性が縫物をすることになったのは一体人間の社会の歴史の中でいつ始まったのだろう。糸を紡ぐこと、織ること、そしてそれを体にまとえるように加工することは非常に古い時代から女のやることであった。これはギリシア神話の中のアナキネ・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・ 母は、障子の傍、縁側の方に横顔を向け、うつむいて弟の縫物をしていた。顔をあげず、「もう少し」 丸八の墨を握ったまま、私はぴしゃ、ぴしゃ硯を叩いて見た。自分の顔は写らないかと黒い美しい艷のある水を覗いた、そしてまた磨り始める。・・・ 宮本百合子 「雲母片」
・・・そうかと思うと、急に熱心に生垣の隙間から隣を覗き、障子の白い紙に華やかな紅の色を照り栄えながら、奥さんらしい人が縫物をしているのを眺める。ここの隣りに、そんなうちがあるのが不思議に感ぜられる。黙ってひっそりと、静に動いたり、顔をあげたりする・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
出典:青空文庫