・・・それは全く、私の知らない何所かの美しい町であった。街路は清潔に掃除されて、鋪石がしっとりと露に濡れていた。どの商店も小綺麗にさっぱりして、磨いた硝子の飾窓には、様々の珍しい商品が並んでいた。珈琲店の軒には花樹が茂り、町に日蔭のある情趣を添え・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ 私を通りすがりに、自動車に援け乗せて、その邸宅に連れて行ってくれる、小説の美しいヒロインも、そこには立っていなかった。おまけにセコンドメイトまでも、待ち切れなくなったと見えて、消え失せてしまっていた。 浚渫船の胴っ腹にくっついてい・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・纈り腮をわざと突き出したほど上を仰き、左の牙歯が上唇を噛んでいるので、高い美しい鼻は高慢らしくも見える。懐手をして肩を揺すッて、昨日あたりの島田髷をがくりがくりとうなずかせ、今月一日に更衣をしたばかりの裲襠の裾に廊下を拭わせ、大跨にしかも急・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・こんな美しい物を。これはおれの物だ。誰にも指もささせぬ。おれが大事にしている。側に寄るな。寄るとあぶないぞ。」手には小刀が光っている。 爺いさんはまた二三歩退いた。そして手早く宝石を靴の中に入れて、靴を穿いた。それから一言も言わずに、そ・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・十六年前の事を思ってみると、あのマドレエヌと云う女は馬鹿に美しい女だった。それが大して変っていないとすると。」これまで言って、あとはなんとも云わなかった。心の内でもそのあとは考えなかったのである。オオビュルナンは女に逢うに、どうしようと云う・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・その秘密らしい背景の上に照り輝いて現われている美しい手足や、その謎めいた、甘いような苦いような口元や、その夢の重みを持っている瞼の飾やが、己に人生というものをどれだけ教えてくれたか。己の方からその中へ入れた程しきゃ出して見せてはくれなかった・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・○くだものと色 くだものには大概美しい皮がかぶさっておる。覆盆子、桑の実などはやや違う。その皮の色は多くは始め青い色であって熟するほど黄色かまたは赤色になる。中には紫色になるものもある。普通のくだものの皮は赤なら赤黄なら黄と一色であるが・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・目からはなすと、またちらりちらり美しい火が燃えだします。 ホモイはそっと玉をささげて、おうちへはいりました。そしてすぐお父さんに見せました。すると兎のお父さんが玉を手にとって、めがねをはずしてよく調べてから申しました。 「これは有名・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・大阪、京都などのような都会は、違った文化が見られて悪るくはないと思いますが、旅として見て、東海道あたりの海が見え、松があるといった美しいだけで、唯長々と眠につづいている整然とした風景よりも、変化のある北の方が好ましいと思います。 旅行で・・・ 宮本百合子 「愛と平和を理想とする人間生活」
・・・「ドイツのような寒い国では、春が一どきに来て、どの花も一しょに咲きます。美しい五月と云う詞があります。桜の花もないことはありませんが、あっちの人は桜と云う木は桜ん坊のなる木だとばかり思っていますから、花見はいたしません。ベルリンから半道ばか・・・ 森鴎外 「かのように」
出典:青空文庫