・・・けれども飛行船が飛んでいるとか何とかいえば、大勢の群集が必ず空を仰いで見る。その時に何か空中に飛行船でも認めしむることが出来ないとも限らない。 それほど人間という者は人の真似をするように出来ている情けないものであります。それでその、人の・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・だがそればかりでなく、群集そのものがまた静かであった。男も女も、皆上品で慎み深く、典雅でおっとりとした様子をしていた。特に女性は美しく、淑やかな上にコケチッシュであった。店で買物をしている人たちも、往来で立話をしている人たちも、皆が行儀よく・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・それと思われるのが二人、入口の処でゾロゾロ改札口の方へ動いて行く、群集を眼で拾っていた。 彼は、立ち上って、三つばかり先のベンチへ行って、横目で、一渡り待合室を見廻した。幸、眼は光っていなかった。「もっとも、俺の顔を知ってる者はいな・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・既に社会を成すときは、朋友の関係あり、老少の関係あり、また社会の群集を始末するには政府なかるべからざるが故に、政府と人民との関係を生じ、その仕組みには君臣の分を定むるもあり、あるいは君臣の名なきもあれども、つまり治むる者と治めらるる者との関・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
印度のガンジス河はあるとき、水が増して烈しく流されていました。それを見ている沢山の群集の中に尊いアショウカ大王も立たれました。大王はけらいに向って「誰かこの大河の水をさかさまにながれさせることのできるものがあるか」と・・・ 宮沢賢治 「手紙 二」
・・・床を歩く群集のたてる擦るようなスースーという音。日本女はそれ等をやきつくように心に感覚しつつ郵便局の重い扉をあけたりしめたりした。 Yが帰ってから、アイサツに廻り、荷物のあまりをまとめ、疲れて、つかれて、しまいには早く汽車が出てゆっくり・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・この群集の海の表面に現われ見えるのは牛の角と豪農の高帽と婦人の帽の飾りである。喚ぶ声、叫ぶ声、軋る声、相応じて熱閙をきわめている。その中にも百姓の強壮な肺の臓から発する哄然たる笑声がおりおり高く起こるかと思うとおりおりまた、とある家の垣根に・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・数えられぬ程多く立ててある、赤い鳥居が重なり合っていて、群集はその赤い洞の中で蠢いているのである。外廻りには茶店が出来ている。汁粉屋がある。甘酒屋がある。赤い洞の両側には見せ物小屋やらおもちゃ店やらが出来ている。洞を潜って社に這入ると、神主・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・その低い屋根の下には露店が続き、軽い玩具や金物が溢れ返って光っていた。群集は高い街々の円錐の縁から下って来て集まった。彼はきょろきょろしながら新鮮な空気を吸いに泥溝の岸に拡っている露店の青物市場へ行くのである。そこでは時ならぬ菜園がアセチリ・・・ 横光利一 「街の底」
・・・ 私は群集の誤解を恐れてはならない。そして誤解を解くための焦燥などは絶対にしてはいけない。たやすく群集に理解されることは危険である。群集の喝采は必ずしも作者の勝利を示しはしない。虚偽と阿諛に充ちた作品をさえ喜ぶ人々の喝采は、恐らく不愉快・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫