・・・てるも追々お嫁さんになれるとしごろになったのだから、ただ行儀見習いだけのつもりで、ひとつ立派なお屋敷に奉公してみる気はないか、と老母にすすめられ、親の言う事には素直なてるは、ほんとうに、毎日こうしてうちで遊んでいるよりは、と機嫌よく承知した・・・ 太宰治 「古典風」
・・・或いはまた、この奥さんの故郷の御老母を思い出して。まさか、そんな事もあるまい。しばらく私は、その繰り返し唄う声に耳を傾けて、そうして、わかった。あの奥さんは、なにも思ってやしないのだ。謂わば、ただ唄っているのだ。夏のお洗濯は、女の仕事のうち・・・ 太宰治 「作家の手帖」
・・・ すなわち、長火鉢へだてて、老母は瀬戸の置き物のように綺麗に、ちんまり坐って、伏目がち、やがて物語ることには、──あれは、わたくしの一人息子で、あんな化け物みたいな男ですが、でも、わたくしは信じている。あれの父親は、ことしで、あけて・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・そうして皆に、はきはきした口調で挨拶して、末席につつましく控えていたら、私は、きっと評判がよくて、話がそれからそれへと伝わり、二百里離れた故郷の町までも幽かに響いて、病身の老母を、静かに笑わせることが、出来るのである。絶好のチャンスでは無い・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・昨年の暮に故郷の老母が死んだので、私は十年振りに帰郷して、その時、故郷の長兄に、死ぬまで駄目だと思え、と大声叱咤されて、一つ、ものを覚えた次第であるが、「兄さん、」と私はいやになれなれしく、「僕はいまは、まるで、てんで駄目だけれども、で・・・ 太宰治 「鉄面皮」
・・・三木は不在であったが、小さく太った老母がいた。家賃三十円くらいの、まだ新しい二階建の家である。さちよが、名前を言うと、おお、と古雅に合点して、お噂、朝太郎から承って居ります、何やら、会があるとかで、ひるから出かけて居りますが、もう、そろそろ・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・私が言わなければ誰も言わないだろうから、私が次のようなあたりまえのことを言うても、何やら英雄の言葉のように響くかも知れないが、だいいちに私は私の老母がきらいである。生みの親であるが好きになれない。無智。これゆえにたまらない。つぎに私は、四谷・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・しかし自分の姉の家ではその老母がずっとあとまで、自分らの中学時代までも、この機織りを唯一の楽しみのようにして続けていた。木の皮を煮てかせ糸を染めることまで自分でやるのを道楽にしていたようである。純粋な昔ふうのいわゆる草木染めで、化学染料など・・・ 寺田寅彦 「糸車」
・・・と言ったきり相手になってくれなかった。老母も奥の隠居部屋から出て来て、めがねでたんねんに検査してはいたが、結局だれにもなんだかわからなかった。「ひょっとしたら私の病気にでもきくというのでだれかが送ってくれたのじゃないかしら、煎じてでも飲・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・その背後に立っていたのは、この未亡人の二人の娘で、とうに他家に嫁いで二人ともに数人の子供の母となっているのであるが、その二人が何か小声で話しながら前に腰かけている老母の鬢の毛のほつれをかわるがわるとりあげて繕ってやっている。つい先刻までは悲・・・ 寺田寅彦 「雑記帳より(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
出典:青空文庫