・・・私はまだお前に欺される程、耄碌はしていない心算だよ。早速お前を父親へ返せ――警察の御役人じゃあるまいし、アグニの神がそんなことを御言いつけになってたまるものか」 婆さんはどこからとり出したか、眼をつぶった妙子の顔の先へ、一挺のナイフを突・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・むらむらと沈んだ、燻った、その癖、師走空に澄透って、蒼白い陰気な灯の前を、ちらりちらりと冷たい魂がさまよう姿で、耄碌頭布の皺から、押立てた古服の襟許から、汚れた襟巻の襞ひだの中から、朦朧と顕れて、揺れる火影に入乱れる処を、ブンブンと唸って来・・・ 泉鏡花 「露肆」
・・・煤だらけな顔をした耄碌頭巾の好い若い衆が気が抜けたように茫然立っていた。刺子姿の消火夫が忙がしそうに雑沓を縫って往ったり来たりしていた。 泥塗れのビショ濡れになってる夜具包や、古行李や古葛籠、焼焦だらけの畳の狼籍しているをくものもあった・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・孫の成長とともにすっかり老いこみ耄碌していた金助が、お君に五十銭貰い、孫の手を引っぱって千日前の楽天地へ都築文男一派の新派連鎖劇を見に行った帰り、日本橋一丁目の交叉点で恵美須町行きの電車に敷かれたのだった。救助網に撥ね飛ばされて危うく助かっ・・・ 織田作之助 「雨」
・・・頼りになる子も無く、財産を分けて遣る楽みも無く、こんな風にして死んで了うのか、そんなことを心細く考え易い年頃でありながら、何ぞというと彼は癖のように、「まだそんな耄碌はしないヨ」と言って見る方の人だった。有り余る程の精力を持った彼は、これま・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・たしかに、疑いもなく、これは耄碌の姿でないか。ご隠居の老爺、それと異るところが無い。 そうして、いまも、笠井さんは八が岳の威容を、ただ、うっとりと眺めている。ああ、いい山だなあと、背を丸め、顎を突き出し、悲しそうに眉をひそめて、見とれて・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・問い合せに来ても、そのときは、私は頭を掻き掻き、さあ、何せまっくらで、それに夢見ごこちで、記憶が全く朦朧としている始末で、どうもお役に立たず、残念に思います、といって、大いに笑えば、警察のひとも、私の耄碌をあわれみ、ゆるしてくれるのではない・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・これは耄碌と云われても仕方がない。 昼過ぎに上野へ出掛けたが、美術館前の通りは自動車で言葉通りに閉塞されていた。これも近年の現象である。美術が盛んになったのではなくて自動車が安くなったのであろう。 場内は蒸暑さに茹だるようであった。・・・ 寺田寅彦 「二科展院展急行瞥見記」
・・・だが老いて既に耄碌し、その上酒精中毒にかかった頭脳は、もはや記憶への把持を失い、やつれたルンペンの肩の上で、空しく漂泊うばかりであった。遠い昔に、自分は日清戦争に行き、何かのちょっとした、ほんの詰らない手柄をした――と彼は思った。だがその手・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・十二月の十日ごろまでは来たが、その後は登楼ことがなくなり、時々耄碌頭巾を冠ッて忍んで店まで逢いに来るようになッた。田甫に向いている吉里の室の窓の下に、鉄漿溝を隔てて善吉が立ッているのを見かけた者もあッた。 十 午時過・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫