・・・それからずっと堂の奥に常燈明の油火が一つ、龕の中に佇んだ聖者の像を照らしている。参詣人はもう一人もいない。 そう云う薄暗い堂内に紅毛人の神父が一人、祈祷の頭を垂れている。年は四十五六であろう。額の狭い、顴骨の突き出た、頬鬚の深い男である・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・女人に愛楽を生じたためしは、古今の聖者にも稀ではない。大幻術の摩登伽女には、阿難尊者さえ迷わせられた。竜樹菩薩も在俗の時には、王宮の美人を偸むために、隠形の術を修せられたそうじゃ。しかし謀叛人になった聖者は、天竺震旦本朝を問わず、ただの一人・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・美しい円光を頂いた昔の西洋の聖者なるものの、――いや、彼の隣りにいるカトリック教の宣教師は目前に奇蹟を行っている。 宣教師は何ごとも忘れたように小さい横文字の本を読みつづけている。年はもう五十を越しているのであろう、鉄縁のパンス・ネエを・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・ クララはぎょっとして更めて聖者を見た。フランシスは激しい心の動揺から咄嗟の間に立ちなおっていた。「そんなに驚かないでもいい」 そういって静かに眼を閉じた。 クララは自分で知らなかった自分の秘密をその時フランシスによって甫め・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・雲のごとき智者と賢者と聖者と神人とを産み出した歴史のまっただ中に、従容として動くことなきハムレットを仰ぐ時、人生の崇高と悲壮とは、深く胸にしみ渡るではないか。昔キリストは姦淫を犯せる少女を石にて搏たんとしたパリサイ人に対し、汝らのうち罪なき・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・その風采や、さながら一山の大導師、一体の聖者のごとく見えたのであった。大正十二年一月 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・老死に至るまで一貫しているのは言わずもあれ、かれを師とするもののうちには、師の発展のはかばかしくないのをまどろッこしく思って、その対抗者の方へ裏切りしたものもあれば、また、師の人物が大き過ぎて、悪魔か聖者か分らないため、迷いに迷って縊死した・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・「どうぞ聖者の毫光を御尊敬なさると同じお心持で、勝利を得たものの額の月桂冠を御尊敬なすって下さいまし。」「どうぞわたくしの心の臓をお労わりなすって下さいまし。あたたの御尊信なさる神様と同じように、わたくしを大胆に、偉大に死なせて下さ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ レーニンの革命が、よしや形の上に於て失敗する時があったとしても、クレムリンの聖者としての彼は、後世いかなる感化を人心に及ぼすであろうか。 いまは既に昔、ヤスナポリヤナに幾百人のつゝましやかな敬虔な心の深い青年が巡礼に出かけたであろ・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・りの長く切れた、口の小さな男で、背たけは人並みに高く、やせてひょろりとした上につんつるてんの着物を着ていましたから、ずいぶんと見すぼらしいふうでしたけれども、私の目にはそれがなんとなくありがたくって、聖者のおもかげを見る気がしたのです。朝一・・・ 国木田独歩 「あの時分」
出典:青空文庫