・・・ただ海の鳴る音が宵に聞いたよりももの凄く聞える。私は体の休まるとともに、万感胸に迫って、涙は意気地なく頬を湿らした。そういう中にも、私の胸を突いたのは今夜の旅籠代である。私もじつは前後の考えなしにここへ飛びこんだものの、明朝になればさっそく・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・と苦しげな息の下から止ぎれ止ぎれに言って、あとはまた眼を閉じ、ただ荒い息づかいが聞えるばかりでした。どうやらそのまま眠ってゆく様子です。 やれやれ眠って呉れた、と二昼夜眠らなかった私は今夜こそ一寸でも眠らねばならぬと考えて、毛布にくるま・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・虫の啼く声などもへんに部屋の中でのように聞こえる。「はあ、来るな」と思っているとえたいの知れない気持が起こって来る。――これはこの頃眠れない夜のお極りのコースであった。 変な気持は、電燈を消し眼をつぶっている彼の眼の前へ、物が盛んに・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 自分は持て来た小説を懐から出して心長閑に読んで居ると、日は暖かに照り空は高く晴れ此処よりは海も見えず、人声も聞えず、汀に転がる波音の穏かに重々しく聞える外は四囲寂然として居るので、何時しか心を全然書籍に取られて了った。 然にふと物・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・滑稽に聞える音調を、老人は真面目な顔で喋っていた。黄色い、歯糞のついた歯が、凋れた唇の間からのぞき、口臭が、喇叭状に拡がって、こっちの鼻にまで這入ってきた。彼は、息を吐きかけられるように不潔を感じた。「一寸居ってくれ給え。」 曹長は・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ぞんざいというと非難するように聞えるが、そうではない、シネクネと身体にシナを付けて、語音に礼儀の潤いを持たせて、奥様らしく気取って挨拶するようなことはこの細君の大の不得手で、褒めて云えば真率なのである。それもその道理で、夫は今でこそ若崎先生・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・――口笛が聞える。別な方からは、大胆な歌声が起る。 俺は起き抜けに足踏みをし、壁をたゝいた。顔はホテり、眼には涙が浮かんできた。そして知らないうちに肩を振り、眉をあげていた。「ごはんの用――意ッ!」 俺はそれを待っていた。丁度そ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・それからの私は、茶の間にいる末子のよく見えるようなところで、二階の梯子段をのぼったり降りたりする太郎や次郎や三郎の足音もよく聞こえるようなところで、ずっとすわり続けてしまった。 こんな世話も子供だからできた。私は足掛け五年近くも奉公・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ここには物音が聞える。為事がある。鉄がある。軸や輪や汽鑵がある。凡人の腕で、猛獣を馴らすように、馴らされた秘密の力がある。扣鈕を掛けたジャケツの下で、男等の筋肉が、見る見る為事の恋しさに張って来る、顫えて来る。目は今までよりも広くかれて輝い・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・麓の家で方々に白木綿を織るのが轡虫が鳴くように聞える。廊下には草花の床が女帯ほどの幅で長く続いている。二三種の花が咲いている。水仙の一と株に花床が尽きて、低い階段を拾うと、そこが六畳の中二階である。自分が記念に置いて往った摺絵が、そのままに・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫