・・・林檎が三つあると、三と云う関係を明かにさえすればよいと云うので、肝心の林檎は忘れて、ただ三の数だけに重きをおくようになります。文芸家にとっても関係を明かにする必要はあるが、これを明かにするのは従前よりよくこの関係を味わい得るために、明かにす・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・それを肝心綯のように細長く綯った。そうして地面の真中に置いた。それから手拭の周囲に、大きな丸い輪を描いた。しまいに肩にかけた箱の中から真鍮で製らえた飴屋の笛を出した。「今にその手拭が蛇になるから、見ておろう。見ておろう」と繰返して云った・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・娘を人の家に嫁せしめて舅姑の機嫌に心配あり、兄公女公親類の附合も面倒なり、幸に是等は円く治まるとしても、肝心の夫こそ掛念至極の相手なれ。其性行正しく妻に接して優しければ高運なれども、或は然らず世間に珍らしからぬ獣行男子にして、内君を無視し遊・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・などは、早苗姫が自殺してからの信玄の心理的経路が鮮明に描かれていなかったらしい為に、肝心の幕切れで、信玄と云う人格、早苗姫の死が、一向栄えないものになったように見える。 作者は、所々で、信玄を、英雄的概念から脱した人間らしい一性格として・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・それなども、つまりはそれらの女性たちが方程式の形だのでは可成りの科学知識を与えられているのに、教育のうちに肝心の科学精神を何も体得させられていないために、実験室があるわけでもない日々の暮しの中では、その知識も死物となって行くのだろうと思う。・・・ 宮本百合子 「科学の精神を」
・・・意志の不明瞭な林之助を、あきらめ切れないお絹の切な情が満ち溢れてこそ、最後の幕も引立ったのだが、肝心の処で見物を失笑させたのは惜しい。 勿論、宗十郎の林之助も甚だカサカサで、情味もなければ消極的な臆病さも充分出ていず、頻りにスースー息を・・・ 宮本百合子 「気むずかしやの見物」
・・・ それだのに、何故今日の結婚論が、早婚の必要と優生知識を説くにせわしくて、結婚を真に生活たらしめてゆく肝心の理解や愛の問題をとばして行っているのだろう。そこのところが、何か今日の結婚論にうるおいのたりない、人間の優しさや深味の少い淋しさ・・・ 宮本百合子 「結婚論の性格」
・・・旅順は落ちると云う時期に、身上の有るだけを酒にして、漁師仲間を大連へ送る舟の底積にして乗り出すと云うのは、着眼が好かったよ。肝心の漁師の宰領は、為事は当ったが、金は大して儲けなかったのに、内では酒なら幾らでも売れると云う所へ持ち込んだのだか・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・そこが肝心なのでございますわ。二頭曳でなくって、一頭曳だったのが。男。でも一頭曳しか無かったのです。貴夫人。いいえ。あんな時はどうしても二頭曳のを見附けていらっしゃらなくてはならないのです。あなたそれからどうなすったか覚えていらっし・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・僕は零が肝心だと思うんだが、どうですか。」「そこですよ。」栖方はひどく乗り出す風に早口になって笑った。「おれのは、みんなそこからです。誰一人分ってくれない。この間も、それで喧嘩をしたのですが、日本の軍艦も船も、みな間違っているのです。船・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫