・・・その上あの煙は肺病によくない。――しかし私はそんな事は忘れて一種の感を得た。その感じは取も直さず、意志の発現に対して起る感じの一部分であります。砲兵工厰の煙ですらこうだから真正の heroism に至っては実に壮烈な感じがあるだろうと思いま・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいう。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいと、かまわずに置く。僕は二階に居る、大将は下に居る。其うち松山中の俳句を遣る門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると・・・ 夏目漱石 「正岡子規」
・・・私は工場で余り乾いた空気と、高い温度と綿屑とを吸い込んだから肺病になったんだ。肺病になって働けなくなったから追い出されたんだ。だけど使って呉れる所はない。私が働かなけりゃ年とったお母さんも私と一緒に生きては行けないんだのに」そこで彼女は数日・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・尤もこれは肺病患者であると、胸を圧せられるなども他の人よりは幾倍も窮屈な苦しい感じがするのであろう。 或時世界各国の風俗などの図を集めた本を見ていたら、其中に或国の王の死骸が棺に入れてある図があった。其棺は普通よりも高い処に置いてあって・・・ 正岡子規 「死後」
・・・その武者の顔をよくよく見て居る内に、それは面頬でなくて、口に呼吸器を掛けて居る肺病患者と見え出した。その次はすっかり変って般若の面が小く見えた。それが消えると、癩病の、頬のふくれた、眼を剥いだような、気味の悪い顔が出た。試にその顔の恰好をい・・・ 正岡子規 「ランプの影」
・・・そして工場に二年ぐらい働いていると悪い労働条件のために肺病となるものの率が多く、その娘たちは田舎の家へかえって不幸のうちに死んでしまう。工場ではそれに対して責任を負わない。工場の衛生問題、早期発見などということは関心をもたれなかった。紡績工・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・ 詩人だったひとは、持病があったところへ肺病がだんだんわるくなって遂に生きられなかったのですが、動坂のおばさんだったひとやそのほかの友達たちが最後まで想像されないほどの親切をつくしました。死ぬ二、三日前に撮った写真では、タオル寝間着――・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・それに実生活の上でも、籍を社会党に置いている。Artzibaschew は個人主義の元祖 Stirner を崇拝していて、革命家を主人公にした小説を多く出す。これも危険である。それに肺病で体が悪くなって、精神までが変調を来している。 フ・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・ デュウゼは薔薇の花を造りながら、田舎の別荘で肺病を養っている。僕はどうかして一度逢ってみたいと思う。でなくとも舞台の上の絶妙な演技を味わってみたいと思う。 シモンズの書いた所によると、デュウゼは自分の好きな人と話をする時には、・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
・・・私が明日にも肺病にかかるかも知れない事は何ゆえに確実でないのか。――私は未来を知らない、死の迫って来る時期をも知らない。「きっと永生きする、」というのはただ私の希望に過ぎないのだ。虫のいい予感に過ぎないのだ。それに何ゆえ私は「死」を自分に近・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫