・・・といって、目を剥いて、脳天から振下ったような、紅い舌をぺろりと出したのを見て、織次は悚然として、雲の蒸す月の下を家へ遁帰った事がある。 人間ではあるまい。鳥か、獣か、それともやっぱり土蜘蛛の類かと、訪ねると、……その頃六十ばかりだった織・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 私は丸太棒でがんと脳天を殴られた思いで、激怒した。ようやくとまったバスの横腹を力まかせに蹴上げた。Kはバスの下で、雨にたたかれた桔梗の花のように美しく伏していた。この女は、不仕合せな人だ。「誰もさわるな!」 私は、気を失ってい・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・九十度近い暑い日が脳天からじりじりと照りつけた。四時過ぎに、敵味方の歩兵はともに接近した。小銃の音が豆を煎るように聞こえる。時々シュッシュッと耳のそばを掠めていく。列の中であっと言ったものがある。はッと思って見ると、血がだらだらと暑い夕日に・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・終日の労働で頭脳はすっかり労れて、なんだか脳天が痛いような気がする。西風に舞い上がる黄いろい塵埃、侘しい、侘しい。なぜか今日はことさらに侘しくつらい。いくら美しい少女の髪の香に憧れたからって、もう自分らが恋をする時代ではない。また恋をしたい・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・我を見て南方の犬尾を捲いて死ねと、かの鉄棒を脳天より下す。眼を遮らぬ空の二つに裂くる響して、鉄の瘤はわが右の肩先を滑べる。繋ぎ合せて肩を蔽える鋼鉄の延板の、尤も外に向えるが二つに折れて肉に入る。吾がうちし太刀先は巨人の盾を斜に斫って戞と鳴る・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 枕を高くした本田富次郎氏は、樫の木の閂でいきなり脳天をガンとやられた。 青年団や、消防組が、山を遠巻きにして、犯人を狩り出していた。が、青年団や消防組員は、殆んど小作人許りであった! 勿論、当局が小作人組合に眼を光らさぬ筈がな・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
出典:青空文庫