・・・日本の倫理というものは、ほとんど腕力的に写実なのだと、目まいのするほど驚きました。なんでもみんな知られているのだ。むかしから、ちゃんと泥沼が、明確にえぐられて在るのだと、そう思ったら、かえって心が少しすがすがしく、爽やかに安心して、こんな醜・・・ 太宰治 「皮膚と心」
・・・ 何とか返辞をしろ、といきり立ち腕力に訴えようとしても、相手は、双葉山である。どうも、いけない。 或るおでんやの床の間に「忍」という一字を大きく書いた掛軸があった。あまり上手でない字であった。いずれ、へんな名士の書であろうと思い、私・・・ 太宰治 「横綱」
・・・ただ、あいつらの腕力が、こわいだけだ。(狼なんて乱暴な事を平然と言い出しそうな感じの人たちばかりだ。どだい、勘がいいなんて、あてになるものじゃない。智慧を伴わない直覚は、アクシデントに過ぎない。まぐれ当りさ。飲みましょう、乾杯。談じ合いまし・・・ 太宰治 「渡り鳥」
・・・はなはだたしかでないが、網を張った叉手の二等辺三角形の両辺の長さが少なくも九尺くらいあり、柄竿の長さもほぼそのくらいあるかと思われ、とにかくずいぶん大きなものであるので、それを自由に操作するには相当の腕力を要するものであったように思う。網目・・・ 寺田寅彦 「鴫突き」
・・・野生の腕力家だ」「君、あの窓の外に咲いている黄色い花は何だろう」 碌さんは湯の中で首を捩じ向ける。「かぼちゃさ」「馬鹿あ云ってる。かぼちゃは地の上を這ってるものだ。あれは竹へからまって、風呂場の屋根へあがっているぜ」「屋・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・言葉を換えていえば、腕力はある、腕の力はある。それじゃ何処が悪いかと言えば、頭がない。頭がなくて手だけで描いている。職人見たようなものである。そうまでいうと御気の毒だから、それだけは公にしません。――これだけ公にしていれば沢山だが――私は別・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・名目は、腕力のあるペン・マンによって、盛り場のゴロツキを征圧しようというのであったが、このことは、今日らしい戦後風景としては笑殺されなかった。すぐ新聞に、それに対する批判があらわれた。そしてそれは当然そうあるべきことであった。一九四六年、日・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第十一巻)」
・・・ この頃の交通機関の恐ろしい混雑は、乗り降りの秩序を市民に教えるより先に、腕力、脚力、なにおッの気合を助成した。大いに猛省がいる。女は、自分の息子や良人や兄弟たちに、一台のりおくれても、正しい列で秩序を保つようにすすめなければならない。・・・ 宮本百合子 「女性週評」
・・・「女は腕力に訴える男より遙に残酷なものだよ」「どんな人の所へ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪になるのだ」という一郎の言葉に、作者は何と悲痛な実感を漲らしているだろう。 漱石の両性相剋の悲劇の核は、一貫して女の救いがたい非条理性と男・・・ 宮本百合子 「漱石の「行人」について」
・・・ まるで見覚えのない始めての世界へ連れ出された様な気持で、何か変の有った時にはまだ年の若い腕力の弱い姉一人を保護者として置いては不安だと云う様な事をぼんやりとながら思って居たものと見えてしきりに、「悪戯っ子が居ないで好い。・・・ 宮本百合子 「小さい子供」
出典:青空文庫