・・・ 紅潮した身体には細い血管までがうっすら膨れあがっていました。両腕を屈伸させてぐりぐりを二の腕や肩につけて見ました。鏡のなかの私は私自身よりも健康でした。私は顔を先程したようにおどけた表情で歪ませて見ました。 Hysterica P・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・紺の絆天の上に前垂をしめて、丸く脹れている。「お嬢さん」「何?」「いいや、男のお嬢さんじゃわいの」「まあ。今お着換えなさるんだわ」「私がどうした」「冗談は置いて、あなたは蟹を食べなんしたか」「いつ?」「ほほほ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・中年の商人風の男の中に交じった一人の若い女の紫色に膨れ上がった顔に白粉の斑になっているのが秋の日にすさまじく照らし出されていた。一段降りて河畔の運動場へ出ると、男女学生の一と群が小鳥のごとく戯れ遊んでいた。男の方がたいてい大人しくしおらしく・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・頬の恐ろしく膨れた、大きなどてらを着た人相のよくない男が艫の甲板の蓆へ座をしめてボーイの売りに来た菓子を食っている。その向いに坐った目の赤いじいさんと相撲の話をしている。あるいは相撲取かも知れぬが髪は二月前に刈ったと云う風である。その隣には・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・その煙の奥の方から本郷の方へと陸続と避難して来る人々の中には顔も両手も癩病患者のように火膨れのしたのを左右二人で肩に凭らせ引きずるようにして連れて来るのがある。そうかと思うとまた反対に向うへ行く人々の中には写真機を下げて遠足にでも行くような・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・これは月と太陽との引力のために起るもので、月や太陽が絶えず東から西へ廻るにつれて地球上の海面の高く膨れた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた大体において東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入っ・・・ 寺田寅彦 「瀬戸内海の潮と潮流」
・・・がてら水仙の水を易えてやろうと思って洗面所へ出て、水道の栓を捩っていると、その看護婦が受持の室の茶器を洗いに来て、例の通り挨拶をしながら、しばらく自分の手にした朱泥の鉢と、その中に盛り上げられたように膨れて見える珠根を眺めていたが、やがてそ・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・その枝が聚まって、中が膨れ、上が尖がって欄干の擬宝珠か、筆の穂の水を含んだ形状をする。枝の悉くは丸い黄な葉を以て隙間なきまでに綴られているから、枝の重なる筆の穂は色の変る、面長な葡萄の珠で、穂の重なる林の態は葡萄の房の累々と連なる趣きがある・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・喇叭を口へあてがっているんで、頬ぺたが蜂に螫されたように膨れていた。膨れたまんまで通り越したものだから、気がかりでたまらない。生涯蜂に螫されているように思う。 芸者が出た。まだ御化粧をしていない。島田の根が緩んで、何だか頭に締りがない。・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・雪のごとく白い蒲団の一部がほかと膨れ返る。兄はまた読み初める。「朝ならば夜の前に死ぬと思え。夜ならば翌日ありと頼むな。覚悟をこそ尊べ。見苦しき死に様ぞ恥の極みなる……」弟また「アーメン」と云う。その声は顫えている。兄は静かに書をふせ・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫