・・・余は四、五日前より容態が急に変って、今までも殆ど動かす事の出来なかった両脚が俄に水を持ったように膨れ上って一分も五厘も動かす事が出来なくなったのである。そろりそろりと臑皿の下へ手をあてごうて動かして見ようとすると、大磐石の如く落着いた脚は非・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・顔がむくむく膨れていて、おまけにあんな冠らなくてもいいような穴のあいたつばの下った土方しゃっぽをかぶってその上からまた頬かぶりをしているのだ。 手も足も膨れているからぼくはまるで権十が夜盗虫みたいな気がした。何をするんだと云ったら、なん・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・風邪で熱が出て扁桃腺が膨れていたところをビンタをくったので耳へ来て、二日ばかりひどく苦痛を訴えた。濡れ手拭がすぐあつくなる位熱があって、もう何日か飯がとおらないのであった。保護室には看護卒をしたというかっ払いが二人いて看守に、「こりゃき・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・女は一寸膨れ、手提袋を出して鏡に自分の顔をうつした。その鏡にはヒビがいっている。 日本女のすぐ後に、小さいピオニェール少女が二人で一つの椅子をかついでやってきた。そして赤い襟飾を並べ、そこへかけ合った。日本女はピオニェールカに訊いた。・・・ 宮本百合子 「三月八日は女の日だ」
・・・ 都会の雑音は愈々膨れ拡った、荒々しい獣のように、私の目先を掠めて左右に黄色い電車や警笛をならす自動車が入り乱れて馳せ違う。ぱっと、一時に向う角の裁縫店の大飾窓に灯がついた。前に溜っていた群集は、俄に、見わけのつかない黒影のかたまりにと・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・二週間目頃ひどく膨れていたむと。いう。〔欄外に〕 Aの、憎んだようなこわい顔、ありあり見えた。 工場の話「柳は陰気くさいが、あれで陽のものだってね。昔何とかいう名高い絵かきが、幽霊の絵をかき明盲にした・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
・・・ペルシャの鹿の模様は暫く緞帳の襞の上で、中から突き上げられる度毎に脹れ上って揺れていた。「陛下、お気をお鎮めなさりませ。私はジョセフィヌさまへお告げ申すでございましょう」 緞帳の間から逞しい一本の手が延びると、床の上にはみ出ていた枕・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・そして、満腹の雀は弛んだ電線の上で、無用な囀りを続けながらも尚おいよいよ脹れて落ちついた。「姉さん、すまんな、今お医者さんとこへ行って来たんやわ。もう来てくれやっしゃるやろ。」 暫くしてお霜はお留に呼び醒まされて彼女を見た。「ど・・・ 横光利一 「南北」
・・・だが、もし知り得ることの出来るものがあったとすれば、それは饅頭屋の竈の中で、漸く脹れ始めた饅頭であった。何ぜかといえば、この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手をつけるということが、それほどの潔癖から長い年月・・・ 横光利一 「蠅」
・・・「先生、私の足、こんなに膨れて来て、どうしたんでございましょう。」「いや、それは何んでもありません。御心配なさいますな。何んでもありませんから。」と医師は誤魔化した。 ――水が足に廻り出したのだ。 ――もう、駄目だ。と彼は思・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫