・・・そこで恵印は約束の手前、今更ほかに致し方もございませんから、渋々叔母の尼の伴をして、猿沢の池が一目に見えるあの興福寺の南大門の石段の上へ参りました。丁度その日は空もほがらかに晴れ渡って、門の風鐸を鳴らすほどの風さえ吹く気色はございませんでし・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・勝手にしやがれと、そっぽを向くより致し方がない。しかし、コテコテと白粉をつけていても、ふと鼻の横の小さなホクロを見つけてみれば、やはり昔なつかしい古女房である。 たとえば、この間、大阪も到頭こんな姿になり果てたのかと、いやらしい想いをし・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・バイキンのようにけがらわしい男だと思われても、所詮致し方はないが、しかし、せめてあんまり醜怪な容貌だとは思われたくない。私は一昨日「エロチシズムと文学」という題で朝っぱらから放送したが、その時私を紹介したアナウンサーは妙齢の乙女で、「只今よ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ しかし、これも薬を売る手段とあれば、致し方あるまいと、おれは辛抱して見ていたが、やがて、その署名の活字がだんだん大きくなって行き、それにふさわしく、年中紋附き羽織に袴を着用するようになった。そして、さまざまな売名行為に狂奔した。れいに・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・反感をもたれても、致し方ない。 故郷の大阪へ帰った私は、しかしお園のように、「去年の秋のわづらひに、いつそ死んでしまつたなら」などと、女々しくならずに、いそいそと新しい大阪という夫のふところに抱かれた。既に、私は文五郎のあやつる三勝・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
・・・を、僕らの文学の中へ呼び戻すために、まずモンテエニュあたりから勉強のし直しをはじめるとしても、しかし、今日僕らの文学の足音が少しは乱暴に高鳴っても、致し方はあるまい――ということだけは、今ここで言い切れると思う。・・・ 織田作之助 「土足のままの文学」
・・・「左様で御座います! 梅子さんを私の同伴者に貰いたいと常に願っております!」きっぱりと言い放って老先生の眼睛を正視した。「もし乃公が与らぬと言ったらどうする?」「致し方が御座いません!」「帰れ! 招喚にやるまでは来るな、帰れ・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・どうしても君が嫌だと云えば、致し方がないけれども、こういう誤解や邪推に出発したことで君と喧嘩したりするのは、僕は嫌だ。僕が君を侮じょくしたと君は考えたらしいけれど兎に角、僕は君のあの原稿の極端なる軽べつにやられて昨夜は殆んど一睡もしなかった・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・生き残った妻子は、ふびんなれども致し方なし。然れども今は、戦死の他の死はゆるされぬ。故に怺えて生きて居るなり。この命、今はなんとかしてお国の役に立ちたし。この一箇条、敢えて剣聖にゆずらじと思うものの、また考えてみると、死にたくない命をも捨て・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・ もし、私のその時の行いが俗物どもから、多少でも優しい仕草と見られたとしたら、私はヴァレリイにどんなに軽蔑されても致し方なかったんです。 ヴァレリイの言葉、――善をなす場合には、いつも詫びながらしなければいけない。善ほど他人を傷ける・・・ 太宰治 「美男子と煙草」
出典:青空文庫