・・・これに鴎が飛んでいたと書けば都合よけれども飛魚一つ飛ばねば致し方もなし。舟傾く時海また傾いて深黒なる奔潮天と地との間に向って狂奔するかと思わるゝ壮観は筆にも言語にも尽すべきにあらず。甲の浦沖を過ぐと云う頃ハッチより飯櫃膳具を取り下ろすボーイ・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 展覧会の評というと、徹底的に賞めちぎるか、扱き下ろすかどっちかにしないと、体をなさないかもしれないが、これは批評でも何でもないのだから、こんな甘い、だらしのないものになっても致し方がない。・・・ 寺田寅彦 「二科会展覧会雑感」
・・・こればかりは日本人の真似の出来ぬ事で致し方がない。ことに婦人は駄目だ、冷淡で熱情がないから。露伴の妹などは一時評判であったがやはり駄目だと云う事だ。空が曇ったのか日が上野の山へかくれたか疊の夕日が消えてしまいつくつくほうしの声が沈んだように・・・ 寺田寅彦 「根岸庵を訪う記」
・・・元来人間の命とか生とか称するものは解釈次第でいろいろな意味にもなりまたむずかしくもなりますが要するに前申したごとく活力の示現とか進行とか持続とか評するよりほかに致し方のない者である以上、この活力が外界の刺戟に対してどう反応するかという点を細・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・しかしこの豆じゃ残念ながら致し方がない」「豆は痛むかね」「痛むの何のって、こうして寝ていても頭へずうんずうんと響くよ」「あんなに、吸殻をつけてやったが、毫も利目がないかな」「吸殻で利目があっちゃ大変だよ」「だって、付けて・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・日本の現代がそう云う社会なら致し方もないが、西洋の社会がかく腐敗して文芸の理想が真の一方に傾いたものとすれば、前後の考えもなく、すぐそれを担いで、神戸や横浜から輸入するのはずいぶん気の早い話であります。外国からペストの種を輸入して喜ぶ国民は・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰すまで進まなければ駄目ですよ。――もっとも進んだってどう進んで好いか解らないのだから、何かにぶつかる所まで行くよりほかに仕方がないのです。私は・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・さればまことに豚の心もちをわかるには、豚になって見るより致し方ない。 外来ヨークシャイヤでも又黒いバアクシャイヤでも豚は決して自分が魯鈍だとか、怠惰だとかは考えない。最も想像に困難なのは、豚が自分の平らなせなかを、棒でどしゃっとやられた・・・ 宮沢賢治 「フランドン農学校の豚」
・・・――でも……そう云う御都合なら致し方もございませんけれど。私……」と歎息した。 さほ子は、承知された嬉しさと、二三日でも一緒に暮した者を家から出す苦痛とで、何とも云えない顔をした。 彼女は、あやまるように、ほろりとする千代を励し・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・公共の任務のために忙しく自動車を駆るものは致し方がないが、私利をはかるために、またはホテルで踊るために、自動車を駆るものに対しては、父は何を感ずるであろう。天下万民が「おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」とは、明治大帝・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫