・・・「今夜の十二時。好いかえ? 忘れちゃいけないよ」 印度人の婆さんは、脅すように指を挙げました。「又お前がこの間のように、私に世話ばかり焼かせると、今度こそお前の命はないよ。お前なんぞは殺そうと思えば、雛っ仔の頸を絞めるより――」・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 探偵でせえ無けりゃそれで好いんだ、馬鹿正直。而して暫くしてから、 だが虫かも知れ無え。こう見ねえ、斯うやって這いずって居る蠅を見て居ると、己れっちよりゃ些度計り甘めえ汁を嘗めているらしいや。暑さにもめげずにぴんぴんしたものだ。・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・「そりゃあ己だって無論好い心持はしないさ。しかしみんながそんな気になったら、それこそ人殺しや犯罪者が気楽で好かろうよ。どっちかに極めなくちゃあならないのだ。公民たるこっちとらが社会の安全を謀るか、それとも構わずに打ち遣って置くかだ。」・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ それだから、好い子、お前は釣をしておいで。 お前は無意識に美しい権利を自覚しているのであるから。 魚を殺せ。そして釣れ。 著:アルテンベルクペーター 訳:森鴎外 「釣」
・・・この男は目にかかる物を何でも可哀がって、憐れで、ああ人間というものは善いものだ、善い人間が己れのために悪いことをするはずがない、などと口の中で囁く癖があった。この男がたまたま酒でちらつく目にこの醜い犬を見付けて、この犬をさえ、良い犬可哀い犬・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・……そういう心持が、善いとも、又、悪いとも言うのではない。が、そういう心持になった際に、当然気が付かなければならないところの、今日の仕事は明日の仕事の土台であるという事――従来の定説なり習慣なりに対する反抗は取りも直さず新らしい定説、新らし・・・ 石川啄木 「性急な思想」
・・・五経、文選すらすらで、書がまた好い。一度冥途をってからは、仏教に親んで参禅もしたと聞く。――小母さんは寺子屋時代から、小僧の父親とは手習傍輩で、そう毎々でもないが、時々は往来をする。何ぞの用で、小僧も使いに遣られて、煎餅も貰えば、小母さんの・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・痩せぎすであったけれども顔は丸い方で、透き徹るほど白い皮膚に紅味をおんだ、誠に光沢の好い児であった。いつでも活々として元気がよく、その癖気は弱くて憎気の少しもない児であった。 勿論僕とは大の仲好しで、座敷を掃くと云っては僕の所をのぞく、・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・「あたい、何も田島さんを好いてやしない、わ」「もう、好く好かないの問題じゃアない、病気がうつる問題だよ」「そんな物アとっくに直ってる、わ」「分るもんか? 貴様の口のはたも、どこの馬の骨か分りもしない奴の毒を受けた結果だぞ」・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ それ故、維新後は本姓の服部よりは世間に通りの好い淡島と改称して、世間からも淡島と呼ばれていたが、戸籍面の本姓が小林であるばかりでなく、事実上淡島屋を別戸していた。随って椿岳の後継は二軒に支れ、正腹は淡島姓を継ぎ、庶出は小林姓を名乗った・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫