・・・この祠の祭の行わるるときは、御花圃とよぶところにて口々に歌など唱いながら、知る知らぬ男女ども、こなた行き、かなた行きして、会いつ別れつしつつ相戯れて遊びくらすを習いとすとかや。かかるならいは、よその国々も少なからず、むかしの「かがい」という・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・それより池のほとりに至るまで広袤およそ三四百坪もあろうかと思われる花圃は僅に草花の苗の二三尺伸びたばかり。花圃の北方、地盤の稍小高くなった処に御成座敷と称える一棟がある。百日紅の大木の蟠った其縁先に腰をかけると、ここからは池と庭との全景が程・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・七月中央公論に、三宅花圃と一葉とのことを書いた随筆を書いた。それも発表された。こうして理由なしに禁止された作品発表は、まだはっきりしたわけが分らぬ中にそろそろ印刷されはじめた。私は書ける間に出来るだけ書くという心持をもった。小説「杉垣」、「・・・ 宮本百合子 「年譜」
・・・それは、明治二十何年という時代、三宅花圃、田沢稲舟などという婦人が、短篇小説を当時の文芸倶楽部にのせた時、出版書店は御礼として半衿一かけずつを呈上したということである。 現在、壮年になっている作家たちが、他の職業にたずさわる同年輩の男の・・・ 宮本百合子 「文学における今日の日本的なるもの」
・・・明治二十年代に三宅花圃が「藪の鶯」という小説を書いた。坪内逍遙が「当世書生気質」を発表した頃で、それに刺戟され、それを摸倣して書いた小説であり、当時流行の夜会や、アメリカ人や洋装をした紳士令嬢などが登場人物となっている。十八九歳だったこの才・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫