・・・そこで彼は甚太夫を呼んで、「ああ云う見苦しい負を取られては、拙者の眼がね違いばかりではすまされぬ。改めて三本勝負を致されるか、それとも拙者が殿への申訳けに切腹しようか。」とまで激語した。家中の噂を聞き流していたのでは、甚太夫も武士が立たなか・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・私の顔が見えると妹は後の方からあらん限りの声をしぼって「兄さん来てよ……もう沈む……苦しい」 と呼びかけるのです。実際妹は鼻の所位まで水に沈みながら声を出そうとするのですから、その度ごとに水を呑むと見えて真蒼な苦しそうな顔をして私を・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・死が恐ろしい、言うに言われぬ苦しいものだという事実がそれであろうか。 いやいや。そんな事ではない。そんなら何だろう。はて、何であろうか。もう一寸の骨折で思い附かれそうだ。そうしたら、何もかもはっきり分かるだろうに。 ところで、その骨・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ やがて、一年間の苦しい努力のまったく空しかったことを認めねばならぬ日が来た。 自分で自分を自殺しうる男とはどうしても信じかねながら、もし万一死ぬことができたなら……というようなことを考・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ 後で聞いて口惜くって、今でも怨んでいるけれど、内証の苦しい事ったら、ちっとも伯母さんは聞かして下さらないし、あなたの御容子でも分りそうなものだったのに、私が気がつかないからでしょうけれど、いつお目にかかっても、元気よく、いきいきしてね・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・しかし自殺者その人の身になったならば、われとわれを殺すその実劇よりは、自殺を覚悟するに至る以前の懊悩が、遥かに自殺そのものよりも苦しいのでなかろうか。自殺の凶器が、目前に横たわった時は、もはや身を殺す恐怖のふるえも静まっているのでなかろうか・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・と脇腹を刺通すと苦しい声をあげて「汝、此のうらみの一念、この幾倍にもしてかえすだろう、口惜い口惜い」と云う息の段々弱って沢の所にたおれたのを押えて止をさし死がいを浮藁の下にしずめそうっと家にかえったけれ共世間にはこんな事を知って居る人は一人・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・「こんなむさ苦しいところからおいでんでも――」「なアに、僕は遠慮がないから――」「まア、おはいりなさって下さい」「失敬します」と、僕は台どころの板敷きからあがって、大きな囲炉裡のそばへ坐った。 主人は尻はしょりで庭を掃除して・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・増給は魯か、ドンナ苦しい事情を打明けられても逆さに蟇口を振って見せるだけだ。「十五円であの生活が出来るかい。十五円はウソじゃアあるまいが、沼南の収入は社の月給ばかりじゃなかろう。コッチは社から貰う外にドコからも金の入る道はないンだぜ、」と、・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 雲は、また、まりに向かって、「もう、あなたは苦しいことを忘れたのですか。ここに、こうしていたら、どんなに安心であるかしれない。あの子供たちも、じきにあなたのことなどは忘れてしまいます。」といいました。 まりは、子供たちといっし・・・ 小川未明 「あるまりの一生」
出典:青空文庫