・・・実に苦しいことだが白状する。――若しこの横われるものが、全裸の女でなくて全裸の男だったら、私はそんなにも長く此処に留っていたかどうか、そんなにも心の激動を感じたかどうか―― 私は何ともかとも云いようのない心持ちで興奮のてっぺんにあった。・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・「お酒で苦しいくらいなことは……。察して下さるのは兄さんばかりだよ」と、吉里は西宮を見て、「堪忍して下さいよ。もう愚痴は溢さない約束でしたッけね。ほほほほほほ」と、淋しく笑ッた。「花魁、花魁」と、お熊がまたしても室外から声をかける。・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・実に苦しい。従ってゆっくりと其問題を研究する余裕がなく、ただ断腸の思ばかりしていた。腹に拠る所がない、ただ苦痛を免れん為の人生問題研究であるのだ。だから隙があって道楽に人生を研究するんでなくて、苦悶しながら遣っていたんだ。私が盛に哲学書を猟・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・俗な、見苦しい、古風な座敷で、椅子や長椅子には緋の天鵝絨が張ってある。その天鵝絨は物を中に詰めてふくらませてあって、その上には目を傷めるような強い色の糸で十文字が縫ってある。アラバステル石の時計がある。壁に塗り込んだ煖炉の上に燭台が載せてあ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・それを今打明けて申すのは、貴方に苦しい思いをさせようと思って申すのではございません。それからわたしは貴方に最後の御返事を致そうかと存じました。その手紙には非道く悲しい事も書かず、恨がましい事も書かず、つい貴方のお心にわたしの心がよう分って、・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
句合の題がまわって来た。先ず一番に月という題がある。凡そ四季の題で月というほど広い漠然とした題はない。花や雪の比でない。今夜は少し熱があるかして苦しいようだから、横に寝て句合の句を作ろうと思うて蒲団を被って験温器を脇に挟みながら月の句・・・ 正岡子規 「句合の月」
・・・ ある晩象は象小屋で、三把の藁をたべながら、十日の月を仰ぎ見て、「苦しいです。サンタマリア。」と云ったということだ。 こいつを聞いたオツベルは、ことごと象につらくした。 ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒れて地べたに座り、藁も・・・ 宮沢賢治 「オツベルと象」
・・・ 内縁関係、未亡人の生きかたに絡む様々の苦しい絆は、経済上の性質をもっているにしろ、その根に、精神の軛として、封建的な家族制度がのしかかっている。今度の第二次世界戦争で、日本の軍事的権力は百四万以上の生命を犠牲とした。家庭は、既に強権に・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・それは苦しい処がないという意味ではない。どんな sport をしたって、障礙を凌ぐことはある。また芸術が笑談でないことを知らないのでもない。自分が手に持っている道具も、真の鉅匠大家の手に渡れば、世界を動かす作品をも造り出すものだとは自覚して・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・何故なら彼女が花園にある限り、彼女の苦しい日々は、恐らく魚の吐き出す煙があるよりも、長く続いて行くにちがいなかったからである。 その夜の回診のとき、彼の妻は自分の足を眺めながら医師に訊ねた。「先生、私の足、こんなに膨れて来て、どうし・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫