・・・一つ目の橋の袂を左へ切れて、人通りの少い竪川河岸を二つ目の方へ一町ばかり行くと、左官屋と荒物屋との間に挟まって、竹格子の窓のついた、煤だらけの格子戸造りが一軒ある――それがあの神下しの婆の家だと聞いた時には、まるでお敏と自分との運命が、この・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 蹄鉄屋の先きは急に闇が濃かくなって大抵の家はもう戸じまりをしていた。荒物屋を兼ねた居酒屋らしい一軒から食物の香と男女のふざけ返った濁声がもれる外には、真直な家並は廃村のように寒さの前にちぢこまって、電信柱だけが、けうとい唸りを立ててい・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・……で、あろう事か、荒物屋で、古新聞で包んでよこそう、というものを、そのままで結構よ。第一色気ざかりが露出しに受取ったから、荒物屋のかみさんが、おかしがって笑うより、禁厭にでもするのか、と気味の悪そうな顔をしたのを、また嬉しがって、寂寥たる・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・三頭も四頭も一斉に吠え立てるのは、丁ど前途の浜際に、また人家が七八軒、浴場、荒物屋など一廓になって居るそのあたり。彼処を通抜けねばならないと思うと、今度は寒気がした。我ながら、自分を怪むほどであるから、恐ろしく犬を憚ったものである。進まれも・・・ 泉鏡花 「星あかり」
・・・ 荒物屋の前に、若いおばさんが、赤ちゃんを抱いていました。なんと思ったか誠さんは、そのそばへいって、「おばさん、このねこの子を飼ってやってくださいませんか。」と、頼みました。 赤ちゃんは、子ねこを見て、きゃっ、きゃっといって、喜・・・ 小川未明 「僕たちは愛するけれど」
・・・しばらくしてそれを送って行った母が部屋へ帰って来て、またしばらくしてのあとで、母は突然、「あの荒物屋の娘が死んだと」 と言って吉田に話しかけた。「ふうむ」 吉田はそう言ったなり弟がその話をこの部屋ではしないで送って行った母と・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ 角屋の大きな荒物屋に手伝いに行っていたお安が、兄のことから暇が出て戻ってきた。「お安や、健は何したんだ?」 母親は片方の眼からだけ涙をポロ/\出しながら、手荷物一つ持って帰ってきた娘にきいた。「キョウサントウだかって……」・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
今日七軒町まで用達しに出掛けた帰りに久し振りで根津の藍染町を通った。親友の黒田が先年まで下宿していた荒物屋の前を通った時、二階の欄干に青い汚れた毛布が干してあって、障子の少し開いた中に皺くちゃに吊した袴が見えていた。なんだ・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・ 荒物屋駄菓子屋の店先に客引きの意味でかかっている写真の顔が新聞やビラの広告に頻繁に現われる。聞いてみるとそれがみんな活動俳優のいわゆるスターだそうである。幕末勇士などに扮した男優の顔はいかなる蛮族の顔よりもグロテスクで陰惨なものである・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・素面ではさすがにぐあいが悪いと見えてみんな道化た仮面をかぶって行くことになっていたので、その時期が来ると市中の荒物屋やおもちゃ屋にはおかめ、ひょっとこ、桃太郎、さる、きつねといったようないろいろの仮面を売っていた。泥色をした浅草紙を型にたた・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫