・・・ 次第に、麦も、田も色には出たが、菜種の花も雨にたたかれ、畠に、畝に、ひょろひょろと乱れて、女郎花の露を思わせるばかり。初夏はおろか、春の闌な景色とさえ思われない。 ああ、雲が切れた、明いと思う処は、「沼だ、ああ、大な沼だ。」・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・ 畷道少しばかり、菜種の畦を入った処に、志す庵が見えました。侘しい一軒家の平屋ですが、門のかかりに何となく、むかしの状を偲ばせます、萱葺の屋根ではありません。 伸上る背戸に、柳が霞んで、ここにも細流に山吹の影の映るのが、絵に描いた蛍・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・かぎろいの春の光、見るから暖かき田圃のおちこち、二人三人組をなして耕すもの幾組、麦冊をきるもの菜種に肥を注ぐもの、田園ようやく多事の時である。近き畑の桃の花、垣根の端の梨の花、昨夜の風に散ったものか、苗代の囲りには花びらの小紋が浮いている。・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種を蒔いた。一ヵ年かかって菜種を五、六升も取った。それからその菜種を持っていって、油屋へ行って油と取換えてきまして、それからその油で本を見た。そうしたところがまた叱られた。「・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・土堤下の菜種畑だって、はやくウネをたかくしとかなきゃ霜でやられる――善ニョムさんは、小作の田圃や畑の一つ一つを自分の眼の前にならべた。たった二日か三日しか畑も田圃も見ないのだが、何だか三年も吾子に逢わないような気がした。「もう嫁達は、川・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・十月ごろから食べはじめ、三月のいわゆる菜種河豚でおしまいにするが、なんといっても正月前後がシュンだ。そこで、正月の松の内に、五、六人の友人と一隻のポンポン船で遠征し、寒さでみんなカゼを引いてしまった。しかも、河豚は二匹しか釣れず、その一匹を・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・その後碧梧桐が郊外から背の低い菜種の花を引き抜いて来て、その外にいろいろの花なども摘みそえて来た事があった。それでその菜の花を鉢植にして、下草にげんげんを植えて、それも写生して見たが、今度は一層骨折ってこまかく書いて見たので、かえって俗にな・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
出典:青空文庫