・・・……と彼は、ハッとした態で、あぶなく鑵を取落しそうにした。そして忽ち今までの嬉しげだった顔が、急に悄げ垂れた、苦いような悲しげな顔になって、絶望的な太息を漏らしたのであった。 それは、その如何にも新らしい快よい光輝を放っている山本山正味・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・彼はそのとき自分が危く涙を落としそうになったのを覚えていた。そして今も彼はその記憶を心の底に蘇らせながら、眼の下の町を眺めていた。 ことに彼にそういう気持を起こさせたのは、一棟の長屋の窓であった。ある窓のなかには古ぼけた蚊帳がかかってい・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・橋を渡れば山を切り開きて、わざとならず落しかけたる小滝あり。杣の入るべき方とばかり、わずかに荊棘の露を払うて、ありのままにしつらいたる路を登り行けば、松と楓樹の枝打ち交わしたる半腹に、見るから清らなる東屋あり。山はにわかに開きて鏡のごとき荻・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・かれこれするうち、自分の向かいにいた二等水兵が、内ポケットから手紙の束を引き出そうとして、その一通を卓の下に落としたが、かれはそれを急に拾ってポケットに押し込んで残りを隣の水兵に渡した。他の者はこれに気がつかなかったらしい、いよいよ読み上げ・・・ 国木田独歩 「遺言」
・・・ 二 母性愛 私の目に塵が入ると、私の母は静かに私を臥させて、乳房を出して乳汁を目に二、三滴落してくれた。やわらかくまぶたに滲む乳汁に塵でチクチクしていた目の中がうるおうて塵が除れた。 亡くなった母を思い出すたび・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ 弾丸に倒れ、眼を失い、腕を落した者が、三人や四人ではなかった。 彼と、一緒に歩哨に立っていて、夕方、不意に、胸から血潮を迸ばしらして、倒れた男もあった。坂本という姓だった。 彼は、その時の情景をいつまでもまざまざと覚えていた。・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・いつぞやお鍋が伊万里の刺身皿の箱を落して、十人前ちゃんと揃っていたものを、毀したり傷物にしたり一ツも満足の物の無いようにしました時、傍で見ていらしって、過失だから仕方がないわ、と笑って済ましておしまいなすったではありませんか。あの皿は古びも・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・夕陽が向う側の監獄の壁を赤く染めて、手前の庭の半分に、煉瓦建の影を斜めに落していた。――それは日が暮れようとして、しかもまだ夜が来ていない一時の、すべてのものがその動きと音をやめている時だった。私はそのなごやかな監獄風景を眺めながら、たゞお・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・状をみずから拝受ししばらくお夏への足をぬきしが波心楼の大一坐に小春お夏が婦多川の昔を今に、どうやら話せる幕があったと聞きそれもならぬとまた福よしへまぐれ込みお夏を呼べばお夏はお夏名誉賞牌をどちらへとも落しかねるを小春が見るからまたかと泣いて・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ とおげんは言って、誰に遠慮もない小山の家の奥座敷に親子してよく寛いだ時のように、身体を横にして見、半ば身体を起しかけて見、時には畳の上に起き直って尻餅でも搗いたようにぐたりと腰を落して見た。そしてその度に、深い溜息を吐いた。「わた・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫