・・・しかし、しかし――とボト、ボトと汗を落しながら三吉は思う。彼女は理解してくれるんじゃないだろうか? 三吉はかつて彼女を「ぱっぱ女学生」などと一度も考えたことがないように、こっちが清らかでさえあれば、願いが通じるような気がする――。「とき・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ こんな事を識すのも今は落した財布の銭を数えるにも似ているであろう。 ○ 東京の郊外が田園の風趣を失い、市中に劣らぬ繁華熱閙の巷となったのは重に大正十二年震災あってより後である。 田園調布の町も尾久三河・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・「そりゃ畑へ落して来たぞ」 他の一人がいった。「どこらだんべ」 落したと思った一人は熱心に聞いた。「西から三番目の畝だ、おめえが大きいのを抱えた時ちゃらんと音がしたっけが其時は気がつかなかったがあれに相違ねえぞ、こっそり・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・彼はむしろ懸崖の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌であった。細君は上出来の辣韮のように見受けらるる。今余の案内をしている婆さんはあんぱんのごとく丸るい。余が婆さんの顔を見てなるほど丸いなと思うとき婆さんはまた何年何月何日を誦し出・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・ 人を救うためにはが唯一の手段じゃないか、自分の力で捧げ切れない重い物を持ち上げて、再び落した時はそれが愈々壊れることになるのではないか。 だが、何でもかでも、私は遂々女から、十言許り聞くような運命になった。 四 ・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・横浜の親類へ行ッて世話になッて、どんなに身を落しても、も一度美濃善の暖簾を揚げたいと思ッてるんだが、親類と言ッたッて、世話してくれるものか、くれないものか、それもわからないのだから、横浜へ進んで行く気もしないんで……」と、善吉はしばらく考え・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
一本腕は橋の下に来て、まず体に一面に食っ附いた雪を振り落した。川の岸が、涜されたことのない処女の純潔に譬えてもいいように、真っ白くなっているので、橋の穹窿の下は一層暗く見えた。しかしほどなく目が闇に馴れた。数日前から夜ごと・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・すべて今の士族はその身分を落したりとて悲しむ者多けれども、落すにも揚るにも結局物の本位を定めざるの論なり。平民と同格なるはすなわち下落ならんといえども、旧主人なる華族と同席して平伏せざるは昇進なり。下落を嫌わば平民に遠ざかるべし、これを止む・・・ 福沢諭吉 「旧藩情」
・・・裁判官が再三注意を与えて、七、其方は火をつけたのではあるまい、火を運んで居て誤って落したのであろう、などというたかもしらぬ。その時お七はわろびれずに、いいえ、吉三さんに逢いたいばかりに、火をつけたらもし逢わりょうかと思うて、つけたのでござい・・・ 正岡子規 「恋」
・・・……先生はああ倒れたのか、苗が弱くはなかったかな、あんまり力を落してはいけないよ、ぐらいのことを云って笑うだけのもんだ。日誌、日誌、ぼくはこの書きつける日誌がなかったら今夜どうしているだろう。せきはとめたし落し口は切ったし田のなかへはまだ入・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
出典:青空文庫